(前号の粗筋)
蓮如上人が吉崎に入り、弥陀の本願を説かれるや、大勢の
参詣者であふれ、中には、遠路、東北から足を運ぶ門徒も
あった。
ところが、浄土真宗の僧侶でありながら土蔵秘事で大勢を
迷わせていた浄祐という男も参詣、それを見られた蓮如上人
は、どうされたか。
浄祐を見られた蓮如上人は、激しい怒りをあらわに
されます。
「親鸞聖人のみ教えをネジ曲げるとは、何と憎たらしい奴だ」
これだけではありません。歯をくい締められて、
「切り刻んでも飽くかよ、飽くかよ」
と、繰り返し叫ばれたともいいます。
八つ裂きにしてもすまない気概に、そばにいたお弟子は、
皆、戦慄したでしょう。その緊迫した様子を、
『御一代記聞書』に次のように著されています。
「蓮如上人、奥州の浄祐を御覧候て、以ての外御腹立候て、
『さてさて親鸞聖人の御流を申しみだすことの浅ましさよ、
憎さよ』と仰せられ候て、御歯をくい締められて、
さて『切り刻みても飽くかよ、飽くかよ』と仰せられ候」
(二四三)
84歳の聖人が長男・善鸞を勘当され、ご臨終にお詫びに
きた善鸞に、面会さえ許されていないことからも、
善知識の、邪を憎まれる鬼気迫る激しさが、知らされます。
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「切り刻んでも飽き足らない奴」――。過激で辛辣なこの言葉は、
ほかならぬ蓮如上人の仰せです。
温厚な上人を知る人には、信じられないでしょう。しかし、
そばに居合わせたお弟子の記録を読めば、蓮如上人の、さらなる
真実に対する厳しさ、潔癖さが知らされます。
文明五年の冬、吉崎御坊(福井県)で、何が起きたのか。
親鸞会で、話を聞くことができました。
■浄祐(奥州)の異安心
蓮如上人が、吉崎御坊(福井県)へ入られて2年後の文明五年、
早くも御坊内は参詣者であふれ、活況を呈していました。
「加賀・越中・能登・越後・信濃・出羽・奥州七箇国より、
彼の門下中、この当山へ、道俗・男女参詣をいたし、群集せしむる」
(1帖目7通)と、『御文章』にあるように、東北からも、
多くの参詣者があったと分かります。
その中に、浄祐という男がいました。浄土真宗の僧侶でありながら、
土蔵秘事に陥り、大勢の門徒を迷わせていました。
土蔵秘事とは、聖人の長子・善鸞が関東で、「オレは、父上から、
秘密の法文を伝授された。この法によれば一晩で信心獲得できる」と
言い出した邪説です。今なお、秘密主義の異安心として根強く
潜行伝播し、真宗の盛んな地では、必ずといっていいほど暗躍しています。
後生の一大事に悩み、早く信心獲得したいとあせる門徒に近づき、
「聴聞しているだけでは救われない」
「信心獲得するには、コツがある」
などと吹き込み、犠牲者を拡大しているのです。
しかし浄土真宗には、他人に言えない秘密など一切ありません。
信心について「これは秘密だ」などと言う者は、土蔵秘事に
間違いないといっていいでしょう。
その土蔵秘事の異安心に染まった浄祐が、奥州から吉崎へ来た目的は
何なのか。遠路いとわず、東北から参詣する仏縁深い門徒を地獄へ
引き込む魂胆か。
次回に、続けます。
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(前号のあらすじ)
超勝寺(福井県)に立ち寄られた蓮如上人は、
その日、設けられていた月一度の会合の様子を
ごらんになり、
「仏法の次第以てのほか相違せり」
と激怒なされている。
各地の門徒が寺に集まってはいるものの、
実態は、住職を囲んだ酒宴に過ぎなかったからだ。
浄土真宗で、会合とは、何のためにあるのか。
蓮如上人にお聞きしてみよう。
浄土真宗における会合の目的を、蓮如上人は
『御文章』にこう教えられる。
「当流において毎月の会合の由来は、何の用ぞ
なれば、在家無智の身をもって徒に暮し、徒に
明して、一期は空しく過ぎて、終に三塗に
沈まん身が、一月に一度なりとも、せめて
念仏修行の人数ばかり道場に集りて、
『わが信心は、ひとの信心は、如何あるらん』と
いう信心沙汰をすべき用の会合なるを……」
在家の我々は、自分の心のままに生活して
いると、いたずらに月日を送ってしまう。
一生はあっという間に過ぎ去り、臨終を迎え、
三悪道(地獄界・餓鬼界・畜生界)へ堕ちて
ゆかねばならない。だから、せめて毎月一度でも
会合の日を決め、仏法を聴聞し、「私の信心は
こうだ、あなたはどうか」と信心の沙汰をして、
光に向かうのが会合の目的なのだ、とご教示で
ある。
超勝寺の会合を見られた上人が、厳しく
戒められたのも、本来の目的を完全に見失い、
ただ、酒、飯、茶、世間話などに終始して
いたからだ。
「言語道断あさましき次第なり。所詮、自今
已後は、かたく会合の座中において、信心の
沙汰をすべきものなり」
と、蓮如上人は、『御文章』一帖目十二通を
結んでおられる。
いつの時代でも、決して忘れてはならない
ご金言に違いない。
門徒にはこのように『御文章』で戒められたが、
一方、超勝寺の住職には厳罰を与えられた。
「当住持は、この門弟あずかるべき器にあらず」
(『反故裏書』)と仰って、住職を罷免し、
追放されたという。
ここで「門弟あずかるべき」とあるのは、
親鸞聖人から、「間違いなく、往生浄土の身に
救われるまで導きなさいよ」とお預かりして
いる大切なご門徒だからである。門徒は決して
住職の私有物ではない。住職の責務がいかに
重大か、知らされる。
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(前号の続き)
先月に続き、福井県南越前町(旧・今庄町)の
山奥に残る「蓮如上人遺跡」の話です。
爆発的な浄土真宗の発展をねたんだ他宗から
命をつけ狙われた蓮如上人は、危険が及ばなく
なるまで岩窟に身を隠されました。その間、給仕を
続けたのは、地元の老婆でした。
危険が去った後、別れを惜しむ老婆に上人は、
「南無阿弥陀仏」の御名号をお書きになり、
「恋しくば 南無阿弥陀仏と称うべし
われも六字のなかにこそ住め」
と詠まれたといいます。
岩窟は「蓮如窟」、中にご安置されている
ご名号は「岩屋の名号」といい、五百年もの間、
地元の人々に語り継がれてきたといいます。
案内板の最後は、
「蓮如上人の遺徳を偲び、参詣者のたえまがない」
と結ばれていました。
では、今はどうなっているか?
「御名号」ではなく、地蔵のような石像が立ち、
周りに賽銭やお供物が散乱、仏像らしきものが、
いくつも並んでいるといいます。
『二十四輩順拝図会』(江戸時代の文献)には、
こう記されています。
「敦賀より六里に今庄の宿あり、夫より又三里
傍に芋ケ平という所あり、昔、蓮如上人、爰に
窮せられ給いし旧跡なりとぞ、岩の空虚なる中に、
六字の名号あり、則蓮師の御筆也と云伝えり」
(二十四輩巡拝図会)
少なくとも江戸時代までは、こんな状態では
なかったのでしょう。
しかし、いずれの地いずこの里も、親鸞聖人、
蓮如上人が、身命をなげうって明らかにして
くだされた教えが伝わっていないと知らされます。
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■暴徒に追われ岩窟へ(福井県南越前町)
福井県の地図を開くと、今庄町(現・南越前町)
の山奥に、「蓮如上人遺跡」という文字が
飛び込んできます。
一体、どんないわれがあるのか?
親鸞会で、詳しく話を聞くことができました。
蓮如上人遺跡に行くには、北陸自動車道を
今庄インターで降ります。道なりに一キロほど
南へ進むと、「蓮如上人遺蹟」という大きな看板。
そこからさらに12キロほど、山あいに。眼前に
広い野原・「芋ケ平」に出ますが、到着では
ありません。
さらに徒歩で15分、山道を登らなければ
なりません。途中、一人がやっと通れるぐらいの
橋を渡ったり、急な岩盤を斜めに登ってゆくと、
岩と岩の間にぽっかり空いた岩窟に着きます。
入り口は狭く、体をくねらせなければ、
入れませんが、中は、いくぶん広くなります。
蓮如上人はなぜ、こんな岩窟まで、
避難されたのでしょうか。
「蓮如の由来」という道端の案内板によると、
ご布教途上で、他宗の者たちに命を狙われ、
芋ケ平まで避難されたようです。
ちょうど畑仕事をしていた老婆が、この危難を
知り、上人をこの岩窟へご案内したといいます。
上人が、しばらく岩窟に身を隠されていた間、
その老婆は、毎日、三度のお食事を運び、心を
込めてお給仕申し上げたようです。
続きは、また今度、お伝えしましょう。
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■前回の続きを、親鸞会で聞くことができました。
(前回までのあらすじ)
蓮如上人は、布教先から吉崎御坊(福井県)へ
帰路を急いでおられた。安原村(現・福井市)
まで戻った辺りで日が暮れ、付近の民家に
一晩の宿を求められる。
仏法嫌いな家の主・重兵衛は最初、邪険に
断わり、果ては、一晩、門前で休まれた上人に
物をぶつける。
だが、なおも「こんな男にこそ、弥陀の本願を
伝えたいものだ」と一心に念じる蓮如上人の
言葉を聞き、さしもの重兵衛も心を打たれ、
聞法に身を沈めるように。程なく、上人の
お弟子となり、やがて、自宅に御名号本尊を
お迎えして、本勝寺を開いた。
(本文)
しかし、本勝寺三代目・浄了の時、安原村に
戦乱が起き、移転せざるをえなくなります。
浄了は命懸けで御名号を奉持し、追っ手を
振り切って、住み慣れた村を脱出し、各地を
転々とした末に、能登半島の門前町に本勝寺を
再建、現在に至っています(石川県門前町道下)。
今は、山のふもと、畑に囲まれるように、
ひっそりと建ち、近くまで行っても、
どこが寺か、尋ねなければ分からないほど。
御本尊は、かつて戦乱の中、浄円坊が命懸けで
お守りした御名号ではなく、木像に。
蓮如上人は、御本尊について、どのように
ご教示されているでしょうか。
「他流には『名号よりは絵像、絵像よりは木像』
というなり。
当流には『木像よりは絵像、絵像よりは名号』
というなり」(『御一代記聞書』)
「他流(迷っている者たち)は、名号よりは
絵像がありがたい、絵像よりも木像の方がもっと
ありがたい、といって絵像や木像を本尊として
いる。
しかし、浄土真宗、親鸞聖人の教えは、
木像よりは絵像、絵像よりも御名号が最もよいと
教えられたのだから、真宗の者は、みな御名号を
御本尊とせよ」
浄土真宗の正しい御本尊は御名号なりと、
明らかに、戒めておられるのです。
蓮如上人のご金言を、かみしめずにおれません。
Posted in 蓮如上人*弟子の話
今月も、親鸞会に行って、蓮如上人の話を聞いてきました。
皆さんにも、お伝えしましょう。
■前回までのあらすじ
蓮如上人は、布教先から吉崎御坊(福井県)へ帰路を急いで
おられた。安原村(現・福井市)まで戻った辺りで日が暮れ、
付近の民家に一晩の宿を求められる。仏法嫌いな家の主・
重兵衛は最初、邪険に断わり、果ては、一晩、門前で休まれた
上人に物をぶつける。だが、なおも「こんな男にこそ、弥陀の
本願を伝えたいものだ」と一心に念じる蓮如上人の言葉を聞き、
さしもの重兵衛も心を打たれ、聞法に身を沈めるようになった。
■本文
蓮如上人は、重兵衛に仏法を説く機が熟したことを大変
喜ばれ、阿弥陀仏の本願を、懇ろに伝えられました。
仏縁は、外見で推し量れるものではありません。法を謗り、
善知識に危害を加えた者でさえ、真実の教えに触れ、みるみる
変わってゆきます。
「ああ、何を求めても、安心も満足もなく、ねたみそねみで
苦しんできたのは、真実の仏法を知らなかったから……。
今、この教えに命を懸けなかったら、未来永遠、救われないぞ」
感激にうち震える重兵衛は、すぐに、上人の弟子にさせて
いただきたいと申し出ています。文明五年(1473)7月6日
のことでした。
かくて、浄円坊と生まれ変わった重兵衛は、蓮如上人の
おそばに仕え、聞法、布教に尽くしたといいます。
やがて、浄円坊は、安原村の自宅に、蓮如上人御真筆の
「南無阿弥陀仏」の御名号をおかけし、本勝寺を開いています。
Posted in 蓮如上人*弟子の話
親鸞会で、蓮如上人の話を聞いてきました。
先月の続きを、お伝えしましょう。
蓮如上人が布教に出られた帰路、日が暮れ、途中、見えてきた
人家に寄ったものの、「坊主が大嫌いなんだ」と、戸を閉められ
てしまいました。
やむなく上人は、作業小屋の軒下で一夜を明かされました。
翌朝、お弟子の一人が、
「申し訳ありませんが、少しばかり食べ物を分けていただけない
でしょうか。上人さまの分だけでも……」
と頼みますが、家の主人は、
「しつこい坊主だ。まだいたのか」
といい、荒々しく物を投げつける始末。こともあろうに、
蓮如上人の頭にまでぶつけたのでした。
「おけがはございませんか」
駆け寄る弟子たちに、上人は、
「私にけがはないが、重兵衛のような男にこそ、弥陀の本願を
伝えたいものだ」
と悲しまれました。
この言葉を聞いた主人・重兵衛は、雷に打たれたようにハッと
しました。己の欲深く冷酷な心が照らされ、いたたまれなく
なったからです。
「申し訳ありません。これまで見てきた坊さんとは、全く違う方
のようです。どうか、中へお入りください」
丁重にお詫びして、上人を、お迎えしました。
もう少し続きます。
Posted in 蓮如上人*こぼれ話, 蓮如上人*布教活動
親鸞会で、蓮如上人についての詳しい話を聞くことが
できました。
親鸞聖人は、石を枕に雪を褥に、邪険な日野左衛門の
家の門前で休まれ、阿弥陀仏の本願を伝えておられます。
蓮如上人にもまた、同様の話が伝わっていると知らされ
ました。
■宿を断った重兵衛
吉崎から布教に出られた帰路、蓮如上人が、越前国安原村
(現・福井市)辺りで日が暮れてしまいました。
宿を借りようにも人家が見当たりません。
夜が更けてから、やっと明かりのついた家が見えてきました。
「旅の者ですが、宿がなく、難儀しております。片隅にでも
泊めていただくわけにはいきませんか」
奥から出てきた男は、邪険な目で一行を見るなり、
「なんだ、クソ坊主どもか。けがらわしい。おれは坊主が
大嫌いなんだ」
とののしり、ピシャリと戸を閉めてしまったのです。
さて、どうなったのか。
続きは、また、お伝えしましょう。
Posted in 蓮如上人*弟子の話
親鸞会で、蓮如上人のお話を聞くことができました。
日本海に、「く」の字型に突き出た能登半島。ここに、真宗の基盤が築かれたのは、蓮如上人の時代でありました。
門前町(現・輪島市)の町の中心に、曹洞宗の総持寺があります。蓮如上人より百年以上前から能登に勢力を誇っていました。その周辺に多いのが、真宗寺院です。今日まで、幾多の法戦が展開されたに違いありません。蓮如上人時代は、どうだったのでしょう?
禅宗の学者として知られる月峰は、総持寺の末寺・大覚寺の住職でした。
浄土真宗の急速な発展を、苦々しく眺めていた月峰は、
「何が浄土仏教だ。大衆をだましおって。蓮如の誤りを正してやるわ」
と意気込み、吉崎御坊へ乗り込んできました。
攻撃が目的の論客にも、蓮如上人は、経典の根拠を引かれ、一つ一つ丁寧に答えられたといいます。
問答を重ねるうちに、さすがの月峰も、
「後生の一大事は、座禅を組んだくらいでは解決できない。阿弥陀仏の本願を聞信しないかぎり、救われる道はない」
と知らされ、敗北を認めざるをえませんでした。
ところが、月峰は、敗れて腹を立てるどころか、真実知らされた喜びに包まれていました。その場で曹洞宗を捨て、上人のお弟子になったのです。
「一向専念無量寿仏」これより外に、我々の助かる道のないことを、蓮如上人は、懇ろに諭されています。
月峰は、門前に帰るとすぐに、曹洞宗の仏像を焼却し、「南無阿弥陀仏」の御名号を本尊としています。寺の名前も「大覚寺」から「満覚寺」に改め、浄土真宗の布教に励んだといいます。
門前から吉崎御坊へ、法論に乗り込んだ住職が、もう一人います。やはり曹洞宗総持寺の修行僧で、その名は円智。浄土仏教をあなどり、簡単に、蓮如上人を打ち破って帰るつもりでしたが、蓮如上人のお徳に引かれ、数週間滞在して、ご説法を聴聞しました。
「蓮如上人こそ、わが人生の師」
と確信した円智は、上人のお弟子となり、明敬寺を開いています。寺の縁起には、
「聞法随喜して真宗に帰す」
と記されています。
経石山の由来(石川県穴水)
七尾湾に面した穴水で、天台、真言などの僧侶が、続々と吉崎を訪れ、蓮如上人のご教化をうけ、やがて真宗に改宗しています。
中でも、天台宗法栄寺の比良祐教という人は、蓮如上人のお弟子になった時、これまでの経典や仏像などすべてを地中に埋め、記念の石碑を建てて、改宗のしるしとしています。
後世に伝えようと決めた山号は、「経石山法栄寺」。
しかし、今は、記念の石碑がどこにあったのか、分からないといいます。
蓮如上人にめぐりあい、真実の教えに触れた祐教が、「一向専念無量寿仏」に反する一切を埋め、末代までも忘るなと遺言した精神は、悲しくも、伝えられていないようです。
「経石山」の山号に込められた心を、よく知らねばなりませんね。
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