Archive for the ‘蓮如上人*弟子の話’ Category

切り刻んでも飽き足りぬ

4月 2, 2012 - 1:57 pm コメントは受け付けていません。

「切り刻んでも飽き足らない奴」――。過激で辛辣なこの言葉は、
ほかならぬ蓮如上人の仰せです。
 温厚な上人を知る人には、信じられないでしょう。しかし、
そばに居合わせたお弟子の記録を読めば、蓮如上人の、さらなる
真実に対する厳しさ、潔癖さが知らされます。
 文明五年の冬、吉崎御坊(福井県)で、何が起きたのか。
 親鸞会で、話を聞くことができました。

■浄祐(奥州)の異安心

 蓮如上人が、吉崎御坊(福井県)へ入られて2年後の文明五年、
早くも御坊内は参詣者であふれ、活況を呈していました。
「加賀・越中・能登・越後・信濃・出羽・奥州七箇国より、
彼の門下中、この当山へ、道俗・男女参詣をいたし、群集せしむる」
(1帖目7通)と、『御文章』にあるように、東北からも、
多くの参詣者があったと分かります。

 その中に、浄祐という男がいました。浄土真宗の僧侶でありながら、
土蔵秘事に陥り、大勢の門徒を迷わせていました。
 土蔵秘事とは、聖人の長子・善鸞が関東で、「オレは、父上から、
秘密の法文を伝授された。この法によれば一晩で信心獲得できる」と
言い出した邪説です。今なお、秘密主義の異安心として根強く
潜行伝播し、真宗の盛んな地では、必ずといっていいほど暗躍しています。
 後生の一大事に悩み、早く信心獲得したいとあせる門徒に近づき、
「聴聞しているだけでは救われない」
「信心獲得するには、コツがある」
などと吹き込み、犠牲者を拡大しているのです。
 しかし浄土真宗には、他人に言えない秘密など一切ありません。
信心について「これは秘密だ」などと言う者は、土蔵秘事に
間違いないといっていいでしょう。
 その土蔵秘事の異安心に染まった浄祐が、奥州から吉崎へ来た目的は
何なのか。遠路いとわず、東北から参詣する仏縁深い門徒を地獄へ
引き込む魂胆か。
 次回に、続けます。

その後、浄円坊の開いた寺は……

11月 21, 2011 - 7:17 pm コメントは受け付けていません。

■前回の続きを、親鸞会で聞くことができました。

(前回までのあらすじ)

蓮如上人は、布教先から吉崎御坊(福井県)へ
帰路を急いでおられた。安原村(現・福井市)
まで戻った辺りで日が暮れ、付近の民家に
一晩の宿を求められる。

 仏法嫌いな家の主・重兵衛は最初、邪険に
断わり、果ては、一晩、門前で休まれた上人に
物をぶつける。

 だが、なおも「こんな男にこそ、弥陀の本願を
伝えたいものだ」と一心に念じる蓮如上人の
言葉を聞き、さしもの重兵衛も心を打たれ、
聞法に身を沈めるように。程なく、上人の
お弟子となり、やがて、自宅に御名号本尊を
お迎えして、本勝寺を開いた。

(本文)

 しかし、本勝寺三代目・浄了の時、安原村に
戦乱が起き、移転せざるをえなくなります。
 浄了は命懸けで御名号を奉持し、追っ手を
振り切って、住み慣れた村を脱出し、各地を
転々とした末に、能登半島の門前町に本勝寺を
再建、現在に至っています(石川県門前町道下)。

 今は、山のふもと、畑に囲まれるように、
ひっそりと建ち、近くまで行っても、
どこが寺か、尋ねなければ分からないほど。

 御本尊は、かつて戦乱の中、浄円坊が命懸けで
お守りした御名号ではなく、木像に。
 蓮如上人は、御本尊について、どのように
ご教示されているでしょうか。

「他流には『名号よりは絵像、絵像よりは木像』
というなり。
 当流には『木像よりは絵像、絵像よりは名号』
というなり」(『御一代記聞書』)
「他流(迷っている者たち)は、名号よりは
絵像がありがたい、絵像よりも木像の方がもっと
ありがたい、といって絵像や木像を本尊として
いる。
 しかし、浄土真宗、親鸞聖人の教えは、
木像よりは絵像、絵像よりも御名号が最もよいと
教えられたのだから、真宗の者は、みな御名号を
御本尊とせよ」

 浄土真宗の正しい御本尊は御名号なりと、
明らかに、戒めておられるのです。
 蓮如上人のご金言を、かみしめずにおれません。

邪険だった重兵衛が、お弟子になる

10月 5, 2011 - 4:29 pm コメントは受け付けていません。

 今月も、親鸞会に行って、蓮如上人の話を聞いてきました。
 皆さんにも、お伝えしましょう。

■前回までのあらすじ

蓮如上人は、布教先から吉崎御坊(福井県)へ帰路を急いで
おられた。安原村(現・福井市)まで戻った辺りで日が暮れ、
付近の民家に一晩の宿を求められる。仏法嫌いな家の主・
重兵衛は最初、邪険に断わり、果ては、一晩、門前で休まれた
上人に物をぶつける。だが、なおも「こんな男にこそ、弥陀の
本願を伝えたいものだ」と一心に念じる蓮如上人の言葉を聞き、
さしもの重兵衛も心を打たれ、聞法に身を沈めるようになった。

■本文

 蓮如上人は、重兵衛に仏法を説く機が熟したことを大変
喜ばれ、阿弥陀仏の本願を、懇ろに伝えられました。
 仏縁は、外見で推し量れるものではありません。法を謗り、
善知識に危害を加えた者でさえ、真実の教えに触れ、みるみる
変わってゆきます。

「ああ、何を求めても、安心も満足もなく、ねたみそねみで
苦しんできたのは、真実の仏法を知らなかったから……。
今、この教えに命を懸けなかったら、未来永遠、救われないぞ」

 感激にうち震える重兵衛は、すぐに、上人の弟子にさせて
いただきたいと申し出ています。文明五年(1473)7月6日
のことでした。
 かくて、浄円坊と生まれ変わった重兵衛は、蓮如上人の
おそばに仕え、聞法、布教に尽くしたといいます。
 やがて、浄円坊は、安原村の自宅に、蓮如上人御真筆の
「南無阿弥陀仏」の御名号をおかけし、本勝寺を開いています。

■宿を断った重兵衛

9月 2, 2011 - 2:20 pm コメントは受け付けていません。

 親鸞会で、蓮如上人についての詳しい話を聞くことが
できました。
 親鸞聖人は、石を枕に雪を褥に、邪険な日野左衛門の
家の門前で休まれ、阿弥陀仏の本願を伝えておられます。
 蓮如上人にもまた、同様の話が伝わっていると知らされ
ました。

■宿を断った重兵衛

 吉崎から布教に出られた帰路、蓮如上人が、越前国安原村
(現・福井市)辺りで日が暮れてしまいました。
 宿を借りようにも人家が見当たりません。
 夜が更けてから、やっと明かりのついた家が見えてきました。
「旅の者ですが、宿がなく、難儀しております。片隅にでも
泊めていただくわけにはいきませんか」
 奥から出てきた男は、邪険な目で一行を見るなり、
「なんだ、クソ坊主どもか。けがらわしい。おれは坊主が
大嫌いなんだ」
とののしり、ピシャリと戸を閉めてしまったのです。

 さて、どうなったのか。
 続きは、また、お伝えしましょう。

天台宗の僧二人、そろって改宗。蓮如上人のご教化で

5月 7, 2011 - 11:13 am コメントは受け付けていません。

 親鸞会で、蓮如上人の布教について、詳しく聞くことができました。

 蓮如上人のご布教により、そのころ、越前(福井県)、加賀(石川県)
一帯の、天台宗の道場が、次々に浄土真宗へ改宗していました。
 寺井(石川県)の天台宗寺院の住職・覚心房覚阿は、苦々しくて
なりません。
「おのれ仏敵、蓮如め。わしが法論で打ち負かしてやる」
 こう豪語して、吉崎御坊へ乗り込みました。

 一方、蓮如上人は、喜んで覚阿を迎えられ、いかなる問いにも明快に
答えられています。
 末法の今、聖道門自力の仏教では一人も助からないと、懇ろに諭された
覚阿は、とても自分のかなう相手ではないと分かります。ただちに、
上人の説かれる教えこそ、釈迦の真意であると確信したのです。
 もはや、天台宗に戻る気はありません。その場で、蓮如上人のお弟子に
なり、名を唯信と改めています。

 その唯信には、隣村に、同じく天台宗の道場を開く山上清左衛門という
親友がいました。これまで同じ志で修行してきた仲です。
 吉崎から帰った唯信は、すぐに清左衛門の道場へ向かい、天台宗を
捨てて浄土真宗に入れと勧めています。

 ところが、入門したての唯信では、清左衛門が納得するまでの話に
及びません。夜を徹して、燃える信念を互いにぶつけた議論に及び
ましたが、並行線。とうとう一緒に吉崎へ参詣し、蓮如上人のご教化を
仰ぐことに。

 上人はまたも喜んで迎えられ、清左衛門に、諄々と、弥陀の本願を
説かれたといいます。すべての疑問が晴れた清左衛門は、上人のお弟子と
なり、名を行勧と改めました。
 唯信房と行勧房は、ともに称仏寺を拠点に、「一向専念無量寿仏」の
徹底に尽くしたのでした。

リアルな地獄の夢に、まどろみ破れた無類の悪党

4月 11, 2011 - 4:05 pm コメントは受け付けていません。

 親鸞会で、蓮如上人のお弟子になった武士の話を聞いてきました。

 蓮如上人が吉崎御坊(福井県)を拠点に、北陸各地の布教へと精力的に
歩いておられた時のこと。

 隣の加賀国能美郡(石川県小松市)に、多田孫左衛門という武士が
いました。常に野山を駆け回り、狩猟に明け暮れ、少しも仏法を尊ぶ心が
ありません。

「死んだ後なんてあるか。この世さえ楽しければいいだろう。
 坊主たちは、死後の極楽を売り物にして金もうけしてやがる。許せん」
 好き放題、暴言を吐き、心中深く、吉崎御坊の繁盛をねたんで、
上人に危害を加えようとさえ企てていた始末。

 そんなある日、溺愛していた一人娘が、病に倒れてしまいます。
次第に重症となり、高熱にうなされて最後、「お父さん、お母さん、
私をいとおしんでくださるなら、冥土へ一緒に来てぇ。ああ、火の車が
来る!怖い、怖い」と悶え苦しむうちに、息を引き取ったのです。

 享年16歳。涙乾かぬその日、床についた孫左衛門は、夢を見ました。
 庭の木陰にたちまち黒雲わき上がり、紅蓮の炎に包まれた火車が
現れたではありませんか。
 牛頭馬頭の怪物たちが、金棒や刀を振りかざし、孫左衛門を
責め立てます。

「耳を澄まして、よーく聞くがよい。お前は、仏法をそしり、鳥獣の命を
奪って、他人をののしる無類の悪党だ。地獄から連れにきたぞ」
 恐れわななく孫左衛門は、詫びようとしても声が出ません。
 逃げようにも道がなく、全身がみるみる炎に焦がされ、苦しみあえぐ
最中に、目が覚めました。

 たとえようのない恐ろしさに、とても夢とは思えません。
「娘が言い残した火車とは、このことか。死んだ後は無になるどころでは
ない、臨終には、必ず火車が現れる。地獄なんてまっぴらだ」

 早速、真剣に救いの道を求めます。
 しかし、真っ暗な魂を解決してくださる教えを説かれるのは、これまで
非難してきた蓮如上人しかおられません。

 恐る恐る吉崎へ向かうと、上人は、温かく迎えてくださいました。
「多くの生き物の命を奪い、罪悪を犯し続ける我々は、一息切れたら、
必ず、地獄に堕ちて苦しまなければならないと教えられます。火車は、
自分で生み出したもの、避けることはできぬ。しかし、阿弥陀仏は、
どんな人をも、必ず救うと誓っておられる。この世は絶対の幸福に
生かされ、死後は弥陀の浄土に往生させていただけるのだ。今より後は、
一心一向に阿弥陀仏を信じなさい」

 法の尊さに打たれた孫左衛門は、歓喜の涙を流し、すぐにもとどり
切って、上人のお弟子となり、名を兼秀と改めています。

浄土真宗が、「一向宗」といわれるのは、どうして?

1月 18, 2011 - 3:00 pm コメントは受け付けていません。

 親鸞会で、蓮如上人が北陸布教をなされた時の話を聞きました。

 蓮如上人は、山中温泉(石川県)に到着されると、黒谷城主・
富樫政昭の庵に滞在され、しばらく湯治されたといわれています。

「城主・政昭は宗門調理の役のゆえ、幸いに真宗の名体を問う。
上人、其答えとして宗名の文を書残し給う。則ち、今世に名高き
一帖目第十五通、山中湯治の御文是なり」(燈明寺略伝)

 その時の記録が残されています。

 富樫政昭は、蓮如上人のご接待役として、直のご教導を賜る機会に
恵まれていました。日頃の疑問をお聞きできるチャンスに、質問を
しています。その内容が、『御文章』に詳しく書かれていますので、
見てみましょう。

 問うていわく、「当流をみな世間に流布して、一向宗と名け候は、
いかようなる子細にて候やらん。不審に覚え候」。
 ○答えていわく、「強ちに我が流を一向宗となのることは、別して
祖師も定められず。おおよそ阿弥陀仏を一向にたのむによりて、
皆人の申しなす故なり。
 しかりと雖も、経文に『一向専念無量寿仏』と説きたまう故に、
一向に無量寿仏を念ぜよといえる意なるときは、一向宗と申したるも
子細なし。さりながら、開山はこの宗をば浄土真宗とこそ定めたまえり。
されば一向宗という名言は、更に本宗より申さぬなりと知るべし。
 されば自余の浄土宗はもろもろの雑行を許す。わが聖人は雑行を
えらびたまう。この故に真実報土の往生を遂ぐるなり。この謂あるが
故に、別して真の字を入れたまうなり」。
(1帖目15通)

 富樫政昭は、世間の人たちがどうして、浄土真宗のことを、
「一向宗」と呼ぶのか、分かりませんでした。
 それに対し、蓮如上人は仰せです。

「一向宗という名は、聖人がつけられたものではない。おそらく、
真宗の門徒が、弥陀一仏を一向に信じ、その外の仏、菩薩、神に
心をかけないから、世間の人たちがつけたのだろう。
 しかし、釈尊が経典に『一向専念無量寿仏』と説かれているから、
『一向に無量寿仏を念ぜよ』という意味でなら、一向宗と言っても
いいだろう。
 浄土宗は、雑行(後生の一大事を助かろうとして、阿弥陀仏以外の
仏、菩薩、神につかえること)を許す。しかし、親鸞聖人は雑行を
厳しく排斥された。だからこそ、弥陀の浄土に往生できるのである」

 蓮如上人のご勧化によって、黒谷城主・富樫政昭も、上人のお弟子と
なり、燈明寺を開きました。現在、温泉街のほぼ中央に位置する
ところにあります。

 蓮如上人は常に、
「弥陀一仏以外、向くな、念ずるな、礼拝するな、供養するな、
これが釈尊の本意なのだ」
と叫んでおられます。
天台宗はじめ各宗からの迫害も、そのために起きたことでした。
 さらに、真実知らされた人々が、徹底して弥陀一仏の礼拝を実践
したからこそ、世間に「一向宗」とまで言われるようになったのです。

天台宗の住職、上人の威徳に打たれ一座でお弟子に。

12月 7, 2010 - 10:31 am コメントは受け付けていません。

 般若岩(石川県)から出られた蓮如上人のご一行は、山中温泉へ
向かわれました。(前号参照)
 その途中、ある寺の門前の石に腰掛けられ、山道のお疲れを癒して
おられた時のことを、親鸞会で聞きました。

 この寺は、天台宗豊原寺の末寺・徳性寺でした。

「時に住持、立出て面接をなすに、凡俗にあらず、即ち上人なるを知り、
恐懼歓喜して直ちに出離要路の教を求む。我、聖道の教を受け、
未来仏果に至るべき要門を聞きつれど、元より下根下機の身なれば、
来世は永く三途に沈むより外なし。由て根機相応の要法ましまさば
教え給えと願いければ、上人直ちに弥陀の弘願を説き給う」
(徳性寺略縁起)

 住職は、一目、蓮如上人を拝見するなり、「ただ人にあらず」と
感じたといいます。
 かねてより有名な吉崎の蓮如上人と知り、大変喜び、後生の一大事
解決の道をお尋ねしています。
「聖道門の修行をしていますが、私のような罪深い者、とても救われる
教えではありません。こんな者でも助かる教えがありましょうか」
 蓮如上人は、直ちに、「どんな人をも、必ず助ける、絶対の幸福に」と
誓われた阿弥陀仏の本願を懇ろに説かれたのです。
 この住職は、一座のご縁で上人のお弟子を申し出て、
「教願房」の名を賜り、聖道門天台宗を捨て、浄土真宗に改めたのでした。

履物を脱がない先に、法施。

11月 29, 2009 - 9:34 pm コメントは受け付けていません。

 今回は、蓮如上人のお側に仕えたお弟子の道西について、お話しましょう。
 『御一代記聞書』(蓮如上人の言行録)に残されているエピソードです。

 ある時、蓮如上人が、法語を書いて道西に与えられました。道西の喜びは大変なもので、
早速、表具をし、箱の中に入れて、大切に保管します。
 ところが、しばらくして蓮如上人が、そのことを知られるや、
「そんなことをしたのでは意味がないではないか。常に、見えるところに掛け、心を正して、
聞法の指針にしなければ」
と戒められています。(『御一代記聞書』二八七)
 蓮如上人から、直筆の法語を頂いたならば、家宝として大切にしたい気持ちが出てくるのは
当然といえましょう。
 しかし、蓮如上人は、
「一日も片時も急いで、信心決定してくれよ」
の御心であられたことが知らされます。

 また、このようなエピソードも伝えられています。
 ある人が、道西の家を訪ねた時のことです。
 まだ玄関先で、履物さえ脱いでいない先に、道西はその客に、仏法の話を始めたと
いわれます。
 そばにいた人が驚いて、
「なぜ、そんなに急がれるのか」
と尋ねると、道西は、
「吐いた息が吸えなかった時が、後生。しかも、それは明日かも知れない無常の世の中だ。
もし履物を脱がないうちに最期を迎えたらどうするか。仏法のことは、急がねばならない」
と答えています。(御一代記聞書一九八)
 蓮如上人は常に、
「後生の一大事の解決を、急げ、急げ」
と教えられます。
 道西は、蓮如上人の仰せの通り、実践し、人にも呼びかけていたことが分かります。
 悲しいことですが、朝には紅顔あって、夕には白骨となれる身が私たちです。
 だからこそ、誰の人も早く、後生の一大事を心にかけ、聞法精進せよと教えられるのでしょう。

単身、比叡山へ。法住、決死の和平交渉

10月 26, 2009 - 5:04 pm コメントは受け付けていません。

先回、比叡山の僧兵と真宗門徒が衝突した史上初の一向一揆について、お話しました。
今回は、その関連で、法住のエピソードを紹介しましょう。

一向一揆後、まもなく、その余波が、今度は堅田を襲います。というのも、金森で奮闘した堅田門徒を
攻撃しようと、比叡山が動き出したからです。
門徒側も法住の住む本福寺に立てこもって武装し、一触即発の事態となりました。

しかし、蓮如上人からは、「武力に訴えてはならない」の厳命があります。何としても衝突は
避けなければなりません。
そこで、法住は、80貫文(約500万円)を山門に積み上げ、和平への意思を表明しました。

さらに、和平交渉のため法住は、単身、比叡山へ乗り込みます。全山の僧が詰め掛ける
根本中堂で、法論が始まりました。

「本願寺は邪法だ。なぜ、新たに名号を本尊とするのか」

早速、怒声が飛びます。
そこへ法住、サッと立ち上がり、柱に御名号をお掛けし、

「我ら在家の者は、罪深く、学もない凡夫。出家して修行に身を投じることなどとうてい及ばぬ。
しかし、阿弥陀仏は、このような罪悪深重の凡夫を目当てに本願を建てておられるのだ。
だから、阿弥陀仏一仏を尊崇し、御名号本尊なのである。どうして、邪法呼ばわりするのか」

根拠を提示してよどみない法住の熱弁に、堂内は、水を打ったように静まり返ります。

ついに、「今かけられるところの本尊、免し申す」の声が上がりました。

多数の僧相手にひるむことなく、完膚なきまでに論破した法住は、この時、70歳。
蓮如上人は高く評価され、この時の御名号をご下附されました。
法住はかしこまって拝受し、以来、堅田・本福寺の御本尊にお迎えしたのです。