Archive for the ‘蓮如上人*こぼれ話’ Category

鬼に襲われた時、清は。

9月 4, 2010 - 11:27 am コメントは受け付けていません。

 「嫁威し肉附の面」の由来について、親鸞会で続きを聞くことが
できました。

(先月までのあらすじ)

 蓮如上人が北陸布教の拠点とされた吉崎御坊(福井県)近くに
住む清は、突然、主人と二人の子どもを立て続けに亡くす。それが
縁で、真剣に聞法するように。
 だが、同居の姑は、熱心に吉崎へ向かう嫁の態度が気に入らない。
たくさんの仕事を言いつけ邪魔をするも、聞きたい一心の清は、
難なくこなして吉崎へ。
 思案の末、姑は、清の通る道で待ち構え、鬼の面をかぶって
襲い掛かった。

 ところが、清は、出てきた鬼にひるむどころか、

「はまばはめ 食わば食え 金剛の 他力の信は よもやはむまじ」
(私を取って食うなら、食えばよい、
 しかし無上仏より賜った他力金剛の真実信は、
 絶対に壊すことはできないぞ)

と一首、口ずさみ、また念仏称えながら、吉崎への道を急ぎ足で
駆けていきます。

 思わぬ展開に姑は、嫁が帰る前にわが家へ戻り慌てて面を取ろうと
しますが、どうしたことか顔に張り付き離れません。無理にはがそうと
すると肉が剥がれんばかりです。

 そのうち、嫁が帰ってきました。清が家に入ると、先ほどの鬼が
いるではありませんか。
 観念した姑は泣き崩れ、
「わしだ。許してくれ。鬼の面が取れなくなってしまったんじゃ。
助けてくれ」
と、ありのままに清に打ち明けました。
「まあ、お母さまでしたか」
 清も力を合わせて面を取ろうとするが、どうにもなりません……。

 上人を頼って、姑と二人、御坊を訪ねました。
 苦しむ姑に、蓮如上人は、どんな人でも必ず助けたまう弥陀の本願を
懇ろに説かれました。

 初めて聞く真実の仏法の素晴らしさに、嫁の聞法を邪魔してきた
これまでの悪行におののき、心から懺悔したのです。
 すると、鬼の面は、ぽろりと落ちたといいます。

 有名な「嫁威し肉附の面」の由来です。

「お前の命、もらったぞ」と鬼がどなった

8月 5, 2010 - 5:17 pm コメントは受け付けていません。

 親鸞会で、先月の「嫁脅しの面」の続きを聞きました。

 吉崎御坊(福井県)の近くに住む清は、夫と二人の子どもを、突然、
亡くし、痛ましい無常に、蓮如上人から真剣に仏法を聞かずにおれなく
なっていました。

 一方、清の姑は大の仏法嫌い、わが子や孫が先立っても、
驚くどころか、毎晩のように聞法のため吉崎へ急ぐ嫁が苦々しく
思えてなりません。

 何か邪魔だてできないかと一計を案じた末、法話の日に合わせ、
「一升の米を、今夜中に粉にしてくれ」
と嫁に臼ひきの仕事を与えます。

 が、清は、早速、黙々と粉を引き、たちまち仕事を終えて、吉崎へ。
仏法聞きたい一心からのことでした。

「一升では少なかったわい」

 姑は、次の日、倍の量を与えます。
 ところが、清はあきらめません。何の力か、仕事がはかどって、
喜んで蓮如上人のもとへと向かいました。
「臼ひきぐらいでは足りぬな。何かいい方法はないか」
 策を練った姑は、「鬼に化けて、吉崎へ向かう道中で脅してやろう。
恐ろしくて、二度と夜道を出歩かなくなるだろう」と思い立ちました。

 翌日、家に代々伝わる鬼の面をつけた姑が、白装束に身を固め、
人気のない寂しい谷に身を隠し、待ち構えます。
 そこへ、いつもどおり、一日の仕事を終えた清が、法話に遅れては
ならぬと、念仏を称えながら足早に通り過ぎようとやってきました。

 すかさず、鋭い鎌を手に、白髪を振り乱した鬼が、暗闇から、
バッと躍り出ます。
「どこへ行く。お前の命、もらったぞ」
 恐ろしい形相をした鬼がしゃがれた声でどなります。(続く)

夫、二人の子を一度に亡くし、「次は私の番」と清。

7月 6, 2010 - 11:54 am コメントは受け付けていません。

 蓮如上人の建立された吉崎御坊(福井県)からほど近い山十楽村に、
夫・与三次と妻・清の夫婦が暮らしていました。二人の子供に恵まれ、
姑も健在の五人家族で、百姓とはいえ、幸せを感じながらの毎日でした。

 ところが、与三次は、突然、病に倒れ、この世を去ってしまいます。
苦楽をともにしてきた夫を亡くし、大黒柱を失った清でしたが、子を
養わねばならぬと、女手一つで、懸命に働き始めます。

 しかし、今度は、その二人の子までが相次いで病死してしまった
のです。立て続けに襲った身内の不幸に、わが身の無常を知らされた
清は、深刻な不安にさいなまれます。
「あまりに、むごい……。一体、何を明かりに生きればいいのでしょう
か。次は、私が死ぬ番。死ねばどこへ行くのでしょうか?」

 ちょうどそのころでした。「あなたの暗い心を晴らしてくださる方は、
蓮如上人しかおられない」と、清が知人から聞かされたのは……。

 当時、吉崎御坊には、近郷はもとより、東北や近畿地方からも
参詣者が参集し、大変なにぎわいを見せていました。清は、夫の命日に、
吉崎御坊へ参詣したのです。

「人の一生は、漆黒の天を走る稲妻のように一瞬で過ぎていきます。
いつ、どんな病気で死ぬか分からないし、明日まで生きておれる保証すら
ありません。生涯かけて、営々と積み上げてきた地位、名誉、財産も、
妻、子供も、臨終には、何一つ、明かりにはなりませんよ。みんな、
夢、幻のような、儚い楽しみでしかないからです。真っ暗な心を抱え、
一人ぼっちで、泣き泣き、三塗の大河を渡らなければならない時が、
必ず、あります。だから、後生は一大事なのです。絶対の幸福に
救い摂ると誓われた弥陀の本願を聞き抜きなさい」

 蓮如上人のご説法は、清の心に、深く突き刺さりました。すぐに清は、
真剣な聞法に身を沈めます。
『願慶寺縁起』は、「立所に信心決定して無二の信者となりき」と伝えて
います。

蓮如上人と、ちまき笹

6月 2, 2010 - 5:09 pm コメントは受け付けていません。

 蓮如上人と、ちまき笹についての話を、親鸞会で聞くことができました。
 皆さんにも、お話したいと思います。

 蓮如上人が、お弟子を連れられ、吉崎(福井県)から加賀(石川県)へ、
ご布教に出られた時のことです。
 帰り道、動橋(石川県加賀市)で、とっぷり日が暮れてしまいました。
とても吉崎御坊まで帰れそうにありません。心細い思いが起きていた
その時、遠くに農家の明かりが見えてきました。

早速、お弟子の慶聞房が、一夜の宿を頼みに行きます。
「旅の途中、暗くなってしまい、難儀しています。どこでもかまいません。
泊めていただけないでしょうか」
 すると、五十がらみのばあさんが、奥から顔をのぞかせ、荒々しく
告げます。
「どこの坊さんか知らんが、お断りだよ。明日は端午の節句だから、
ちまき(笹の葉にまいて蒸した餅菓子)作りで忙しいんだ。帰っておくれ」
 拒絶されて落胆した上、疲れていたところにちまきの話、
慶聞房は、急に空腹を覚えました。そういえば、今日は、昼から何も
食べていない。
 何より、蓮如上人に申し訳がありません。
 そこで、声を奮って、「ちまきを一つ譲ってもらえぬか。力をつけて
夜通し歩きたいのじゃ……」と尋ねると、つっけんどんな婆さん、
「一つぐらいならいいよ」と意外な返事がありました。
 慶聞房は喜んで受け取り、蓮如上人に差し上げるや、何と、
笹にくるんであったのは餅ではなく、石ではありませんか。
 愚弄するかのように、「坊さんよ、その石を食べたら泊めてやっても
いいよ」ともいいます。
 慶聞房は、さすがに怒りをあらわにしました。それでも蓮如上人は、
弟子を制しながらが、邪険な婆さんに、諄々と弥陀の本願を説かれたと
いいます。

 このときの様子を、『ちまき笹略縁起』は、
「彼女五体を地に投じ前非を悔み、上人を請じ奉り、夜もすがら
御勧化をこうむり、親子もろともにお弟子となる」
と記し、邪慳な婆さんと、婆さんの息子がそろって上人のお弟子と
なったと伝えています。
 よほど法の尊さに心打たれのでしょう、自宅も聞法道場として
開放しています。

 それが、篠生寺(石川県加賀市動橋町)です。JR北陸本線の
動橋駅から東へ四百メートルほどのところで、境内には、
「ちまきささの霊場」と刻まれた大きな石碑が立ち、
笹が群生しています。
 蓮如上人をしのぶ法要は、毎年6月に勤められ、門徒の主婦が
集まって作ったちまきが、参詣者に配られるといいます。
 500年の時を超えなお、蓮如上人の温かさ、偉大さが、
語り継がれています。

三井寺に、聖人の御真影。犬塚のエピソードも。

5月 1, 2010 - 11:10 am コメントは受け付けていません。

 これまで、何度も紹介したように、蓮如上人は、延暦寺から、執拗に
お命を狙われていました。

 ところが蓮如上人は、文明元年(1469)、三井寺(滋賀県大津市)の
敷地内に、小堂を建立なされ、親鸞聖人の御真影を安置されています。
三井寺は延暦寺と同じ天台宗の寺院です。

「なぜ、そんなところに?」と思われる方があるかもしれません。

 実は、当時、三井寺と比叡山は敵対関係にあったからです。それも、
合戦に及ぶこと幾たびもあったほど険悪でした。さすがの比叡山も、
三井寺の勢力圏内に手を伸ばすことはできません。
そこを見抜かれての、蓮如上人のご決断でした。

 もちろん、境内に親鸞聖人の御真影が安置されれば、今や急成長を
遂げる本願寺門徒が群参し、寺一帯が繁盛するだろう、という三井寺の
打算も加わっていました。

 そのうち、この小堂は、「顕証寺」と名付けられ、山科本願寺が
建立されるまで、畿内で中核をになう重要な役割を果たすことになります。

場所は、京阪電鉄上栄町駅(大津市)から北へ100メートルほど
行ったところにあり、三井寺からは一キロ以上離れています。かつて、
この一帯が三井寺の敷地だった証であり、強大な勢力を誇っていたことが
分かります。

 その顕証寺と上栄町駅との間には、大きなけやきの木があります。
民家の屋根より高くそびえ、幹まわりおよそ6,8メートル。根元に
「犬塚」と刻まれた石碑が立ちます。

 蓮如上人に深い関係があり、文化財にも指定される犬塚の由来について、
親鸞会で話を聞くことができました。

 蓮如上人は、ある犬を大変かわいがられていました。いつもは外で
元気に遊ぶその愛犬が、なぜか、上人のそばを離れようとしない日の
ことです。
 食事時、蓮如上人が、料理に向かわれるや、突然、その愛犬が
飛び込んできて、お膳をひっくりかえし、一気にご飯をかっこみます。

すると、どうでしょう。

たちまち苦しみだし、血を吐いて死んでしまったではありませんか。
金に目がくらみ、比叡山の言いなりになった男が、上人に出す料理に
毒を盛っていたのです。
 あわれ、犬が一命をもって、比叡山の卑劣な手段の身代わりに……。
 蓮如上人は、犬を痛くはかなみ、手厚く葬られた後、その塚にけやきを
植えられました。

 下手人を死刑にしようとする三井寺側を制し、蓮如上人は、諄々と
仏法を説かれ、お慈悲に感泣したその男は、やがて上人のお弟子となり、
生涯尽くしたといいます。

蓮如上人桜

4月 26, 2010 - 1:39 pm コメントは受け付けていません。

 花といえば、、、

 そう、桜ですね。

 今年は、4月でも肌寒い日が続き、桜の開花期間が長かったようです。
 そこで今回は、「蓮如上人桜」について。
 蓮如上人と、桜の木??はて、と首をひねる方もあるかもしれません。
 そのエピソードを、親鸞会で聞くことができました。
 紹介しましょう。

 桜の木のある場所は、琵琶湖の東方・日野町(滋賀県)です。
 蓮如上人の布教拠点の一つ金森(滋賀県守山市)から、鈴鹿山脈の
方向へ、車を三十キロほど走らせると、到着します。

 その日野町の『日野のふる里むかし話』によると、
「照光寺に蓮如上人桜あり」と紹介されています。
 照光寺は、近江鉄道本線「日野」駅近くにあり、開基は、源氏の流れを
くむ武士・花木吉成です。

 吉成が仏門に入ったきっかけは、他人の命を奪うことを名誉とする
武士の所業に、強い罪悪感を抱き、世の無常を深く感じていたからでした。

「人生このままでいいのか……」

と悩んでいたちょうどその時、蓮如上人が日野地方へ布教に来られます。

 その一度の聞法が、吉成に一大決心をさせます。

 吉成は武士の身分を捨て、すぐに、蓮如上人のお弟子となり、
名も「了明」と改めました。

 さらに、自らの屋敷を聞法道場として開放し、蓮如上人のご法話が
開かれたのです。

 その吉成の屋敷には、見事な桜の木が植えてありました。
 蓮如上人は、この桜を大変お気に召され、じっと花の下にたたずんで
おられたといいます。
そのお姿の気高さに感激した吉成は、「蓮如上人桜」と命名し、
子々孫々まで、この日の感動を伝えたということです。
 文正元年(一四六六)春のことでした。

 照光寺の本堂前には、今も、そう高くはない蓮如上人ゆかりの桜が
風に揺れています。

笠で顔を隠され、「柳の枝さえ見たくない」

3月 2, 2010 - 10:38 am コメントは受け付けていません。

 蓮如上人が、東国(関東)からの帰路、相模(神奈川県)の鎌倉を
通られた時のエピソードを、親鸞会で聞くことができました。

 お弟子が、
「この方角に、善鸞の寺の跡があります」
と申し上げたところ、

 蓮如上人は、

「親鸞聖人に背いた者の寺など見たくもない」

とおっしゃって、十キロ近くも手前から笠を傾け、見ないようにされたと
いいます。

『実悟記』には、次のように書かれています。

「鎌倉近き所に善鸞の御坊跡あり、柳茂りてたしかならず。
かかる処を御通ありしに、善鸞は聖人御不孝ありしなればとて、
御坊跡の柳の梢をも御覧あるまじとて、二、三里の間、御笠を
かたぶけられ、ついに御覧ぜられざりし」

 善鸞は、親鸞聖人のご長男ですが、
「父から真夜中、秘密の法文を伝授された」
と言いふらし、神に仕え祈祷し、吉凶を占い、仏法を蹂躙する仏敵が
わが子と知られた聖人には、断じて見過ごすことはできませんでした。

 再三にわたる諌めをも聞き入れない善鸞を、親鸞聖人は、断固、
義絶されました。
 親子でも、仏法を破壊する者への厳しさは、身震いするばかりです。

 蓮如上人もまた、真実に潔癖な方でありました。
 善鸞が住んでいた寺とはいえ、二百年も前のことです。
 しかも、遠目には、柳の木に隠れて寺の屋根さえハッキリ見えない
状態でした。

 しかし、蓮如上人は「その柳の枝さえ見たくない」と、笠で顔を
隠されたのです。
 邪を憎まれる激しさが、伝わってくるではありませんんか。

箸塚に立つ柳の大木と、歯形の葦

2月 8, 2010 - 4:57 pm コメントは受け付けていません。

 箸塚(滋賀県守山市)に立つ「柳の大木」と「歯形の葦」を、
ご存知でしょうか?
 蓮如上人に伝わるエピソードを、親鸞会で聞くことができました。
 紹介しましょう。

 1日およそ35000台もの車が通行し、琵琶湖の西岸と東岸とを、
陸路に比べ、50分も短縮して結ぶのが、琵琶湖大橋。
 大橋の西近辺がちょうど大津市堅田、東近辺は守山市金森に
あたります。
 蓮如上人は、この堅田と金森の間を、よく船で往来されたと
いわれます。

 そのご布教の足跡「蓮如上人箸塚」が湖畔に残されています。
 琵琶湖の入江の中でも、一段とくぼんだ場所にあって、周囲を
石の柵で囲まれ、「蓮如上人箸塚」と刻まれた歴史を感じさせる
細い石柱が立っています。
 中には、湖面から吹く風になびき、そよそよと枝を揺らす
柳の大木が立ちます。

 蓮如上人と、柳の木との関係は??
 昔から語り継がれる言い伝えによると……。

 ある時、蓮如上人が、堅田から守山の赤野井浜に船でお着きに
なり、浜辺で弁当を召し上がられました。
 食事後、使われた箸をほとりに植えられると、後日、それが、
大きな柳の木になったといわれます。

 さらに、この柳の木の周りに茂る葦の葉にも、他で見られぬ
特徴があります。

 それは……。

 葦の細長い葉の中央に、ギザギザの傷があって、あたかも
歯形のような斑点がついているのです。

 実はこれが、蓮如上人の歯形だと、伝えられています。

 上人が比叡山の僧兵から逃げておられる時、葦の葉を噛まれて
飢えをしのがれたといわれ、以来、この辺の葦の葉には
歯形がつくようになったと、村の伝承に残っているそうです。

 身の危険をも顧みられず、ひたすら真実開顕の一路を進まれる
蓮如上人のご恩に感泣した人々が、箸塚や葦の葉に託して語り伝えた
のでしょう。

四天王寺の土塔会にて、「多くの人が、地獄へ。不憫でならぬ」

1月 25, 2010 - 5:14 pm コメントは受け付けていません。

■「うちは、門徒です」
 自分の家が、浄土真宗だという時、しばしば耳にする「門徒」。
 蓮如上人が、「御門徒」とおっしゃって、その意味を詳しく
 教えられているエピソードを、親鸞会で聞くことができました。
 紹介しましょう。

 京都の山科本願寺を失われた蓮如上人は、その後、摂津や河内
 (大阪方面)など、流浪の日々が、続きます。
 柔らかな日差しが心地よい春先、上人が、四天王寺の門前
 (今の大阪市天王寺区)を通られた時のこと、多くの人が
 ごったがえして、身動きとれません。
 実はその日、南大門外にある牛頭天王を祭る土塔の宮の大祭日
 だったからです。

 この様子に上人は、
「あれほど多くの人たちが地獄へ堕ちていく。不憫だな、哀れだな」
と、驚くべきことをおっしゃっています。

 お聖教の根拠を、示しましょう。
「天王寺土塔会、蓮如上人、御覧候て、仰せられ候、
『あれ程の多き人ども地獄へ堕つべしと、不便に思召し候』由
 仰せられ候。
 又『其の中に御門徒の 人は仏になるべし』と仰せられ候。
 是れ又ありがたき仰にて候」
 (『御一代記聞書』一一九)
 ※『御一代記聞書』とは、蓮如上人の言行録。

 蓮如上人がこのようにズバリ言い切られたのは、なぜでしょう?

 親鸞聖人が、「阿弥陀仏以外の仏や菩薩、神では助からない」と、
 厳しく戒められているからです。
 そのうえで、蓮如上人は、「御門徒の人は仏になるべし」と
 続けておられます。
 こう聞くと、中には、「真宗門徒なら誰でも仏になれるの?」と
 思う人もあるかもしれませんが、そうではありません。
 ここで「御門徒」とは、阿弥陀仏一仏に向かい、本願力に
 救い摂られた人のことです。
 ですからここは、「信心決定した人は、必ず浄土に往生できる」と
 教えられているのです。
 本願寺を破却され、各地を転々とされながらも、
 蓮如上人の大自信は微動だにすることなく、親鸞聖人の教えを、
 全国津々浦々に、伝えていかれました。

親鸞聖人二百回忌法要に、一休の姿。

12月 3, 2009 - 4:10 pm コメントは受け付けていません。

 
■蓮如上人が法主に就任されてから4年後(47歳)の寛正二年、
 京都の本願寺では、親鸞聖人二百回忌法要が盛大に勤修されました。

 金森や堅田の門徒をはじめ、各地からの参詣者は数百人を超えたと
 いわれています。
 それまで人影がなく、さびさびとしていた本願寺が、わずか四年で
 一転、爆発的な飛躍をとげたのです。

 二百回忌法要に参詣した中には、飄々とした一休の姿がありました。
 臨済宗の僧でありながら、蓮如上人と親交が深かったといわれます。
 その一休が、この時、親鸞聖人の御影前に次のような和歌を捧げて
 います。

「襟まきの あたたかそうな黒坊主
        こいつが法は 天下一なり」

 一休らしい屈折した表現ですが、いかに、本願他力の教えに
 引かれていたか。

 蓮如上人より21歳年上で、宗旨の違いをこえ、
 親鸞聖人の教えが説かれる本願寺にまで足を運んでいることからも、
 その傾倒ぶりが、よく分かります。

■さらに、教線の拡大は近江(滋賀県)だけにとどまりません。

 三河(愛知県)では、高田派上宮寺の住職・佐々木如光が
 上人のお弟子に。早速に、三河、尾張、伊勢の百カ寺を率いて、
 三河門徒を形成しました。
 また、摂津(大阪府)では、当時、最大勢力を誇っていた
 仏光寺派から転ずる寺も出てきます。

 しかし、このような急速な法輪拡大を、黙って見ている比叡山で
 あるはずがありません。
 
「本願寺を打ち壊せ」と悪僧たちが叫び、
 不穏な空気が覆い始めます。
 蓮如上人のご身辺にまで、危険にさらされる事態が起きようと
 していました。