Archive for the ‘蓮如上人*こぼれ話’ Category

蓮如上人と、ちまき笹

6月 2, 2010 - 5:09 pm コメントは受け付けていません。

 蓮如上人と、ちまき笹についての話を、親鸞会で聞くことができました。
 皆さんにも、お話したいと思います。

 蓮如上人が、お弟子を連れられ、吉崎(福井県)から加賀(石川県)へ、
ご布教に出られた時のことです。
 帰り道、動橋(石川県加賀市)で、とっぷり日が暮れてしまいました。
とても吉崎御坊まで帰れそうにありません。心細い思いが起きていた
その時、遠くに農家の明かりが見えてきました。

早速、お弟子の慶聞房が、一夜の宿を頼みに行きます。
「旅の途中、暗くなってしまい、難儀しています。どこでもかまいません。
泊めていただけないでしょうか」
 すると、五十がらみのばあさんが、奥から顔をのぞかせ、荒々しく
告げます。
「どこの坊さんか知らんが、お断りだよ。明日は端午の節句だから、
ちまき(笹の葉にまいて蒸した餅菓子)作りで忙しいんだ。帰っておくれ」
 拒絶されて落胆した上、疲れていたところにちまきの話、
慶聞房は、急に空腹を覚えました。そういえば、今日は、昼から何も
食べていない。
 何より、蓮如上人に申し訳がありません。
 そこで、声を奮って、「ちまきを一つ譲ってもらえぬか。力をつけて
夜通し歩きたいのじゃ……」と尋ねると、つっけんどんな婆さん、
「一つぐらいならいいよ」と意外な返事がありました。
 慶聞房は喜んで受け取り、蓮如上人に差し上げるや、何と、
笹にくるんであったのは餅ではなく、石ではありませんか。
 愚弄するかのように、「坊さんよ、その石を食べたら泊めてやっても
いいよ」ともいいます。
 慶聞房は、さすがに怒りをあらわにしました。それでも蓮如上人は、
弟子を制しながらが、邪険な婆さんに、諄々と弥陀の本願を説かれたと
いいます。

 このときの様子を、『ちまき笹略縁起』は、
「彼女五体を地に投じ前非を悔み、上人を請じ奉り、夜もすがら
御勧化をこうむり、親子もろともにお弟子となる」
と記し、邪慳な婆さんと、婆さんの息子がそろって上人のお弟子と
なったと伝えています。
 よほど法の尊さに心打たれのでしょう、自宅も聞法道場として
開放しています。

 それが、篠生寺(石川県加賀市動橋町)です。JR北陸本線の
動橋駅から東へ四百メートルほどのところで、境内には、
「ちまきささの霊場」と刻まれた大きな石碑が立ち、
笹が群生しています。
 蓮如上人をしのぶ法要は、毎年6月に勤められ、門徒の主婦が
集まって作ったちまきが、参詣者に配られるといいます。
 500年の時を超えなお、蓮如上人の温かさ、偉大さが、
語り継がれています。

三井寺に、聖人の御真影。犬塚のエピソードも。

5月 1, 2010 - 11:10 am コメントは受け付けていません。

 これまで、何度も紹介したように、蓮如上人は、延暦寺から、執拗に
お命を狙われていました。

 ところが蓮如上人は、文明元年(1469)、三井寺(滋賀県大津市)の
敷地内に、小堂を建立なされ、親鸞聖人の御真影を安置されています。
三井寺は延暦寺と同じ天台宗の寺院です。

「なぜ、そんなところに?」と思われる方があるかもしれません。

 実は、当時、三井寺と比叡山は敵対関係にあったからです。それも、
合戦に及ぶこと幾たびもあったほど険悪でした。さすがの比叡山も、
三井寺の勢力圏内に手を伸ばすことはできません。
そこを見抜かれての、蓮如上人のご決断でした。

 もちろん、境内に親鸞聖人の御真影が安置されれば、今や急成長を
遂げる本願寺門徒が群参し、寺一帯が繁盛するだろう、という三井寺の
打算も加わっていました。

 そのうち、この小堂は、「顕証寺」と名付けられ、山科本願寺が
建立されるまで、畿内で中核をになう重要な役割を果たすことになります。

場所は、京阪電鉄上栄町駅(大津市)から北へ100メートルほど
行ったところにあり、三井寺からは一キロ以上離れています。かつて、
この一帯が三井寺の敷地だった証であり、強大な勢力を誇っていたことが
分かります。

 その顕証寺と上栄町駅との間には、大きなけやきの木があります。
民家の屋根より高くそびえ、幹まわりおよそ6,8メートル。根元に
「犬塚」と刻まれた石碑が立ちます。

 蓮如上人に深い関係があり、文化財にも指定される犬塚の由来について、
親鸞会で話を聞くことができました。

 蓮如上人は、ある犬を大変かわいがられていました。いつもは外で
元気に遊ぶその愛犬が、なぜか、上人のそばを離れようとしない日の
ことです。
 食事時、蓮如上人が、料理に向かわれるや、突然、その愛犬が
飛び込んできて、お膳をひっくりかえし、一気にご飯をかっこみます。

すると、どうでしょう。

たちまち苦しみだし、血を吐いて死んでしまったではありませんか。
金に目がくらみ、比叡山の言いなりになった男が、上人に出す料理に
毒を盛っていたのです。
 あわれ、犬が一命をもって、比叡山の卑劣な手段の身代わりに……。
 蓮如上人は、犬を痛くはかなみ、手厚く葬られた後、その塚にけやきを
植えられました。

 下手人を死刑にしようとする三井寺側を制し、蓮如上人は、諄々と
仏法を説かれ、お慈悲に感泣したその男は、やがて上人のお弟子となり、
生涯尽くしたといいます。

蓮如上人桜

4月 26, 2010 - 1:39 pm コメントは受け付けていません。

 花といえば、、、

 そう、桜ですね。

 今年は、4月でも肌寒い日が続き、桜の開花期間が長かったようです。
 そこで今回は、「蓮如上人桜」について。
 蓮如上人と、桜の木??はて、と首をひねる方もあるかもしれません。
 そのエピソードを、親鸞会で聞くことができました。
 紹介しましょう。

 桜の木のある場所は、琵琶湖の東方・日野町(滋賀県)です。
 蓮如上人の布教拠点の一つ金森(滋賀県守山市)から、鈴鹿山脈の
方向へ、車を三十キロほど走らせると、到着します。

 その日野町の『日野のふる里むかし話』によると、
「照光寺に蓮如上人桜あり」と紹介されています。
 照光寺は、近江鉄道本線「日野」駅近くにあり、開基は、源氏の流れを
くむ武士・花木吉成です。

 吉成が仏門に入ったきっかけは、他人の命を奪うことを名誉とする
武士の所業に、強い罪悪感を抱き、世の無常を深く感じていたからでした。

「人生このままでいいのか……」

と悩んでいたちょうどその時、蓮如上人が日野地方へ布教に来られます。

 その一度の聞法が、吉成に一大決心をさせます。

 吉成は武士の身分を捨て、すぐに、蓮如上人のお弟子となり、
名も「了明」と改めました。

 さらに、自らの屋敷を聞法道場として開放し、蓮如上人のご法話が
開かれたのです。

 その吉成の屋敷には、見事な桜の木が植えてありました。
 蓮如上人は、この桜を大変お気に召され、じっと花の下にたたずんで
おられたといいます。
そのお姿の気高さに感激した吉成は、「蓮如上人桜」と命名し、
子々孫々まで、この日の感動を伝えたということです。
 文正元年(一四六六)春のことでした。

 照光寺の本堂前には、今も、そう高くはない蓮如上人ゆかりの桜が
風に揺れています。

笠で顔を隠され、「柳の枝さえ見たくない」

3月 2, 2010 - 10:38 am コメントは受け付けていません。

 蓮如上人が、東国(関東)からの帰路、相模(神奈川県)の鎌倉を
通られた時のエピソードを、親鸞会で聞くことができました。

 お弟子が、
「この方角に、善鸞の寺の跡があります」
と申し上げたところ、

 蓮如上人は、

「親鸞聖人に背いた者の寺など見たくもない」

とおっしゃって、十キロ近くも手前から笠を傾け、見ないようにされたと
いいます。

『実悟記』には、次のように書かれています。

「鎌倉近き所に善鸞の御坊跡あり、柳茂りてたしかならず。
かかる処を御通ありしに、善鸞は聖人御不孝ありしなればとて、
御坊跡の柳の梢をも御覧あるまじとて、二、三里の間、御笠を
かたぶけられ、ついに御覧ぜられざりし」

 善鸞は、親鸞聖人のご長男ですが、
「父から真夜中、秘密の法文を伝授された」
と言いふらし、神に仕え祈祷し、吉凶を占い、仏法を蹂躙する仏敵が
わが子と知られた聖人には、断じて見過ごすことはできませんでした。

 再三にわたる諌めをも聞き入れない善鸞を、親鸞聖人は、断固、
義絶されました。
 親子でも、仏法を破壊する者への厳しさは、身震いするばかりです。

 蓮如上人もまた、真実に潔癖な方でありました。
 善鸞が住んでいた寺とはいえ、二百年も前のことです。
 しかも、遠目には、柳の木に隠れて寺の屋根さえハッキリ見えない
状態でした。

 しかし、蓮如上人は「その柳の枝さえ見たくない」と、笠で顔を
隠されたのです。
 邪を憎まれる激しさが、伝わってくるではありませんんか。

箸塚に立つ柳の大木と、歯形の葦

2月 8, 2010 - 4:57 pm コメントは受け付けていません。

 箸塚(滋賀県守山市)に立つ「柳の大木」と「歯形の葦」を、
ご存知でしょうか?
 蓮如上人に伝わるエピソードを、親鸞会で聞くことができました。
 紹介しましょう。

 1日およそ35000台もの車が通行し、琵琶湖の西岸と東岸とを、
陸路に比べ、50分も短縮して結ぶのが、琵琶湖大橋。
 大橋の西近辺がちょうど大津市堅田、東近辺は守山市金森に
あたります。
 蓮如上人は、この堅田と金森の間を、よく船で往来されたと
いわれます。

 そのご布教の足跡「蓮如上人箸塚」が湖畔に残されています。
 琵琶湖の入江の中でも、一段とくぼんだ場所にあって、周囲を
石の柵で囲まれ、「蓮如上人箸塚」と刻まれた歴史を感じさせる
細い石柱が立っています。
 中には、湖面から吹く風になびき、そよそよと枝を揺らす
柳の大木が立ちます。

 蓮如上人と、柳の木との関係は??
 昔から語り継がれる言い伝えによると……。

 ある時、蓮如上人が、堅田から守山の赤野井浜に船でお着きに
なり、浜辺で弁当を召し上がられました。
 食事後、使われた箸をほとりに植えられると、後日、それが、
大きな柳の木になったといわれます。

 さらに、この柳の木の周りに茂る葦の葉にも、他で見られぬ
特徴があります。

 それは……。

 葦の細長い葉の中央に、ギザギザの傷があって、あたかも
歯形のような斑点がついているのです。

 実はこれが、蓮如上人の歯形だと、伝えられています。

 上人が比叡山の僧兵から逃げておられる時、葦の葉を噛まれて
飢えをしのがれたといわれ、以来、この辺の葦の葉には
歯形がつくようになったと、村の伝承に残っているそうです。

 身の危険をも顧みられず、ひたすら真実開顕の一路を進まれる
蓮如上人のご恩に感泣した人々が、箸塚や葦の葉に託して語り伝えた
のでしょう。

四天王寺の土塔会にて、「多くの人が、地獄へ。不憫でならぬ」

1月 25, 2010 - 5:14 pm コメントは受け付けていません。

■「うちは、門徒です」
 自分の家が、浄土真宗だという時、しばしば耳にする「門徒」。
 蓮如上人が、「御門徒」とおっしゃって、その意味を詳しく
 教えられているエピソードを、親鸞会で聞くことができました。
 紹介しましょう。

 京都の山科本願寺を失われた蓮如上人は、その後、摂津や河内
 (大阪方面)など、流浪の日々が、続きます。
 柔らかな日差しが心地よい春先、上人が、四天王寺の門前
 (今の大阪市天王寺区)を通られた時のこと、多くの人が
 ごったがえして、身動きとれません。
 実はその日、南大門外にある牛頭天王を祭る土塔の宮の大祭日
 だったからです。

 この様子に上人は、
「あれほど多くの人たちが地獄へ堕ちていく。不憫だな、哀れだな」
と、驚くべきことをおっしゃっています。

 お聖教の根拠を、示しましょう。
「天王寺土塔会、蓮如上人、御覧候て、仰せられ候、
『あれ程の多き人ども地獄へ堕つべしと、不便に思召し候』由
 仰せられ候。
 又『其の中に御門徒の 人は仏になるべし』と仰せられ候。
 是れ又ありがたき仰にて候」
 (『御一代記聞書』一一九)
 ※『御一代記聞書』とは、蓮如上人の言行録。

 蓮如上人がこのようにズバリ言い切られたのは、なぜでしょう?

 親鸞聖人が、「阿弥陀仏以外の仏や菩薩、神では助からない」と、
 厳しく戒められているからです。
 そのうえで、蓮如上人は、「御門徒の人は仏になるべし」と
 続けておられます。
 こう聞くと、中には、「真宗門徒なら誰でも仏になれるの?」と
 思う人もあるかもしれませんが、そうではありません。
 ここで「御門徒」とは、阿弥陀仏一仏に向かい、本願力に
 救い摂られた人のことです。
 ですからここは、「信心決定した人は、必ず浄土に往生できる」と
 教えられているのです。
 本願寺を破却され、各地を転々とされながらも、
 蓮如上人の大自信は微動だにすることなく、親鸞聖人の教えを、
 全国津々浦々に、伝えていかれました。

親鸞聖人二百回忌法要に、一休の姿。

12月 3, 2009 - 4:10 pm コメントは受け付けていません。

 
■蓮如上人が法主に就任されてから4年後(47歳)の寛正二年、
 京都の本願寺では、親鸞聖人二百回忌法要が盛大に勤修されました。

 金森や堅田の門徒をはじめ、各地からの参詣者は数百人を超えたと
 いわれています。
 それまで人影がなく、さびさびとしていた本願寺が、わずか四年で
 一転、爆発的な飛躍をとげたのです。

 二百回忌法要に参詣した中には、飄々とした一休の姿がありました。
 臨済宗の僧でありながら、蓮如上人と親交が深かったといわれます。
 その一休が、この時、親鸞聖人の御影前に次のような和歌を捧げて
 います。

「襟まきの あたたかそうな黒坊主
        こいつが法は 天下一なり」

 一休らしい屈折した表現ですが、いかに、本願他力の教えに
 引かれていたか。

 蓮如上人より21歳年上で、宗旨の違いをこえ、
 親鸞聖人の教えが説かれる本願寺にまで足を運んでいることからも、
 その傾倒ぶりが、よく分かります。

■さらに、教線の拡大は近江(滋賀県)だけにとどまりません。

 三河(愛知県)では、高田派上宮寺の住職・佐々木如光が
 上人のお弟子に。早速に、三河、尾張、伊勢の百カ寺を率いて、
 三河門徒を形成しました。
 また、摂津(大阪府)では、当時、最大勢力を誇っていた
 仏光寺派から転ずる寺も出てきます。

 しかし、このような急速な法輪拡大を、黙って見ている比叡山で
 あるはずがありません。
 
「本願寺を打ち壊せ」と悪僧たちが叫び、
 不穏な空気が覆い始めます。
 蓮如上人のご身辺にまで、危険にさらされる事態が起きようと
 していました。

蓮如上人とお初と空善房

7月 6, 2009 - 3:31 pm コメントは受け付けていません。

比叡山延暦寺は蓮如上人の首を捕った者には褒美を払うとのおふれを出しました。
それによって欲に目が眩んだ者が現れたのは必須。
同時に起こった悲しい話を親鸞会で聞くことができました。

蓮如上人は近江で布教している途中、中井長右衛門の家に泊まります。
この事実に喜んだ長右衛門夫婦。
褒美を娘のためにと、蓮如上人の暗殺を画策します。

一方、娘のお初は、これを機と蓮如上人の法話を熱心に聞き入る様子。
感激を胸に、蓮如上人の身の回りのお世話をします。

そうしているうちに、お初の耳に恐ろしい両親の謀ごとが聞こえてきました。
蓮如上人の身に危険が迫っている。
そのことを知らせようと、お初は歌に代えて事を伝えます。
それに気づいた蓮如上人。
お初の案内に導かれて家から逃げ出します。

家に残ったお初はというと、なんと蓮如上人の身代わりとなって布団に潜ります。
そうと知らずにやってきた長右衛門夫婦。
布団を斬りつけると、そこにいたのは娘のお初です。
思いもしない因果応報に、夫婦は悲しみにくれるしかありません。

お初は、どうか蓮如上人の教えを受けるようにと懇願して息絶えるのです。

お初の頼みを遺言として、蓮如上人に許しを乞う長右衛門夫婦。
命を狙っていたため、会わせる顔がないと思っていました。
しかし、夫婦の後悔を受けて、蓮如上人は二人を諭します。

我が子を手にかけることはこの世のものとも思えない恐ろしい所業。
しかし、阿弥陀仏の本願を聞信するならば必ず救い摂られるだろう、と。

こうして、長右衛門は空善房として蓮如上人の弟子となります。

空善房は「蓮如上人御一代記聞書」の著者。
精進に精進を重ねて、蓮如上人のご臨終にまで看病した信任厚い弟子です。

蓮如上人と一休さん

6月 25, 2009 - 2:22 pm コメントは受け付けていません。

蓮如上人と交流を深くしていた有名人として、あの一休さんが挙げられます。
一休は蓮如上人よりも21も年上です。
加えて浄土真宗ではなく臨済宗。
にも関わらず、親鸞聖人の二百回忌法要には一休も参詣者として訪れます。
そのときに一休が歌ったという、次の和歌があります。
「襟まきの あたたかそうな黒坊主 こいつが法は 天下一なり」
親鸞聖人の御影前に対して、なんと破天荒な和歌でしょうか。
あまりに砕けたところが一休らしいですね。
また、浄土真宗の本願他力に惹かれている様子がひしひしと伝わります。

蓮如上人が布教中によく滞在されていた聞光寺があります。
また、その近くには小林寺があり、そこには一休がよく滞在していたそうです。
聞光寺は、そんな蓮如上人と一休の交流の場。
一休は幾度となく蓮如上人の法話を聞き、次のような考えを持つに至ります。
「自分が求めているのは禅の道である。
しかし、最後には南無阿弥陀仏の念仏の教えに帰さなければいけない」

・・・そんな一休が亡くなる際、弟子にある遺言を残します。
それは、念仏の中陰(四十九日の法要)を蓮如上人にしてほしい、というもの。
その遺言どおりに、一休の弟子は蓮如上人に念仏を頼みます。
しかし、その頼みを断る蓮如上人。
いわく、法は現身に説くもので死んでからでは意味がない、という。
親鸞聖人のみ教えでは「平生業成」と説かれています。
この仏教用語の意味を、親鸞会で教えていただきました。
阿弥陀仏の救いは平生に定まるもの。
死んでからでは手遅れということなのです。