Archive for the ‘蓮如上人*本願寺再興’ Category

蓮如上人の御文章

5月 18, 2009 - 3:05 pm コメントは受け付けていません。

蓮如上人といえば御文章、御文章といえば蓮如上人です。
御文章は蓮如上人が考えられた、布教方法のひとつです。
これによって、親鸞聖人の教えは爆発的に広まりました。

では、御文章とはいったい何なのか。
それは現代で例えると「手紙」が最も近いでしょう。
単純に手紙を布教の手段に使う方法はそれまでにもありました。
御文章がそれらと違うのは、差出人を特定していない点にあります。
不特定多数の人に向けて発信することで、あらゆる地域に広まります。
同時に幾通にも書き写され、それがまた各地に広がるのです。
もとは蓮如上人自身の言葉なので、読み上げた言葉は蓮如上人の言葉といえます。
また、そこに書かれた文字が平仮名交じり。
学の乏しい者にも読めることが功を奏したのでしょう。
蓮如上人の御文章は瞬く間に広まり、浄土真宗はめざましい発展を遂げます。
一人の足で歩いて布教するのでは限界があります。
しかし、御文章は幾人もの蓮如上人が日本中を歩くのと同じ効果をもたらしたのです。

御文章は蓮如上人が教行信証を元に書きあげられたものです。
そこには親鸞聖人の教えを正しく説いた言葉が記されています。
蓮如上人が生涯のうちに書かれた御文章は、じつに260通を超えます。
現在、御文章といわれているものは、その中から選ばれた80通。
私たちが知る御文章は、多く書かれたお手紙の一部であることがわかります。

さて、蓮如上人を語るにあたって重要な御文章。
その第一号にはどんなエピソードがあるのでしょう。

蓮如上人の高説に心を打たれた者に、道西という人がいます。
蓮如上人が47歳のとき、親鸞聖人の教えを記した文を道西に渡しました。
感嘆した道西。
蓮如上人からいただいたそれを、親鸞聖人、ひいては阿弥陀仏からの御文と受け止めます。
ただの手紙ではないとして、それを「御文章」と呼ぶようになったのです。

蓮如上人と比叡山延暦寺

5月 10, 2009 - 2:21 pm コメントは受け付けていません。

蓮如上人が法主となった当時、本願寺は目も当てられないほど廃れていました。
その理由のひとつに、比叡山延暦寺の末寺を余儀なくされていたことが挙げられます。
現在とは違って、当時の本願寺は仏教界の中では微々たる存在であったのです。
独立寺院として認められてさえいませんでした。
存続のためには延暦寺の末寺としてあるしかなかったのです。

現在、浄土真宗が全国津々浦々まで浸透しているのも、ひとえに蓮如上人のおかげです。
では蓮如上人は本願寺再興のために何をしたのか。

まず最初のひとつが、延暦寺と宗旨を異にすることです。
といっても、これは容易なことではありません。
延暦寺は、なんといっても仏教界の頂点に君臨する寺院です。
そして、屈強な僧兵たちを抱え、武力もあって過激なことでも有名。
宗旨を異にしようとすれば直ちに反逆者と見なされ、本願寺など容易に弾圧されます。
門徒たちが渋る中、蓮如上人はそれでも延暦寺からの脱却を宣言しました。
本願寺内の天台風の装飾は全てとりはらう。
また、御本尊を絵像でも木像でもなく、御名号ただひとつに統一する。
そうして、蓮如上人は延暦寺に対して宣戦布告ともいえる行動をとったのです。

それを知った延暦寺の僧たちは、寛正6年1月8日、とうとう本願寺に攻め入ります。
堅田門徒の協力や佐々木如光の機転で、蓮如上人は凶刃から逃れるのですが・・・
3月21日、再度の本願寺襲撃によって、本願寺は完全に破壊されるのです。
蓮如上人51歳、法主に就任してから8年目のことです。
これが「寛正の法難」です。