Archive for the ‘蓮如上人*延暦寺との攻防’ Category

三井寺に、聖人の御真影。犬塚のエピソードも。

5月 1, 2010 - 11:10 am コメントは受け付けていません。

 これまで、何度も紹介したように、蓮如上人は、延暦寺から、執拗に
お命を狙われていました。

 ところが蓮如上人は、文明元年(1469)、三井寺(滋賀県大津市)の
敷地内に、小堂を建立なされ、親鸞聖人の御真影を安置されています。
三井寺は延暦寺と同じ天台宗の寺院です。

「なぜ、そんなところに?」と思われる方があるかもしれません。

 実は、当時、三井寺と比叡山は敵対関係にあったからです。それも、
合戦に及ぶこと幾たびもあったほど険悪でした。さすがの比叡山も、
三井寺の勢力圏内に手を伸ばすことはできません。
そこを見抜かれての、蓮如上人のご決断でした。

 もちろん、境内に親鸞聖人の御真影が安置されれば、今や急成長を
遂げる本願寺門徒が群参し、寺一帯が繁盛するだろう、という三井寺の
打算も加わっていました。

 そのうち、この小堂は、「顕証寺」と名付けられ、山科本願寺が
建立されるまで、畿内で中核をになう重要な役割を果たすことになります。

場所は、京阪電鉄上栄町駅(大津市)から北へ100メートルほど
行ったところにあり、三井寺からは一キロ以上離れています。かつて、
この一帯が三井寺の敷地だった証であり、強大な勢力を誇っていたことが
分かります。

 その顕証寺と上栄町駅との間には、大きなけやきの木があります。
民家の屋根より高くそびえ、幹まわりおよそ6,8メートル。根元に
「犬塚」と刻まれた石碑が立ちます。

 蓮如上人に深い関係があり、文化財にも指定される犬塚の由来について、
親鸞会で話を聞くことができました。

 蓮如上人は、ある犬を大変かわいがられていました。いつもは外で
元気に遊ぶその愛犬が、なぜか、上人のそばを離れようとしない日の
ことです。
 食事時、蓮如上人が、料理に向かわれるや、突然、その愛犬が
飛び込んできて、お膳をひっくりかえし、一気にご飯をかっこみます。

すると、どうでしょう。

たちまち苦しみだし、血を吐いて死んでしまったではありませんか。
金に目がくらみ、比叡山の言いなりになった男が、上人に出す料理に
毒を盛っていたのです。
 あわれ、犬が一命をもって、比叡山の卑劣な手段の身代わりに……。
 蓮如上人は、犬を痛くはかなみ、手厚く葬られた後、その塚にけやきを
植えられました。

 下手人を死刑にしようとする三井寺側を制し、蓮如上人は、諄々と
仏法を説かれ、お慈悲に感泣したその男は、やがて上人のお弟子となり、
生涯尽くしたといいます。

金森の合戦

9月 28, 2009 - 11:42 am コメントは受け付けていません。

 琵琶湖岸・赤野井の浜に立てば、対岸には比叡山が間近に迫ります。
 蓮如上人が活躍した当時、熱心な門徒が集まった堅田や金森も近くで、比叡山から見下ろせる
位置にありました。延暦寺からすれば、自分たちの膝元で本願寺が急速に発展するのは、当然、
おもしろくありません。攻撃は、蓮如上人のみならず、本願寺の門徒にも及んでいました。

 門徒の家に押し入って御本尊を奪い、金銭をゆすり、家屋を壊します。幕府も、再三、制止命令を
出しますが、一向におさまりません。そこで門徒は、比叡山の横暴を避けて、
蓮如上人まします金森道場へ集まるように。町の周囲は水濠や土塁で囲まれ外敵の侵入を防ぎ、
中は、道場(寺院)を中心に二百戸近い民家が建ち並び、道路も碁盤の目状に整備されていました。
安心して、仏法を聴聞できる町造りだったようです。

 ところが、文正元年(一四六六)八月、比叡山が金森を襲うというウワサが流れ、
まもなく、三百人余の暴徒が金森を包囲します。しかし、堅田からの援軍や門徒決死の防戦で、
蓮如上人は、かろうじて敵中を突破され、難を逃れます。
 上人の無事を見届けた門徒衆は、敵の主将の首級をあげ、13人討ち取る勝利でした。
意気盛んに、蓮如上人へ報告に伺うと、上人は大変ご立腹になります。
「人を殺すとは、言語道断。正法か邪法かは、法論で決着をつけるべきだ。すぐに、軍を解散せよ」
 厳命がくだされます。

 これが、史上初の一向一揆といわれています。

親鸞聖人と身代わり名号石

7月 1, 2009 - 3:02 pm コメントは受け付けていません。

本願寺が延暦寺の悪僧に襲撃されて以来、蓮如上人は命を狙われることになります。
蓮如上人は布教を進めるべく、各地で法話を説き続けます。
法話を説けば、必ず多くの人々がそこに集う。
人の集まるところに蓮如上人ありと、噂を聞きつけた悪僧がやってくるのです。

ある日、命を狙う悪僧から逃げて、蓮如上人は安養寺へとやってきます。
しかし、門前まで来たはいいものの、もう逃げる場所はありません。
石柱の陰に身を隠すものの、細い柱。
切りつける悪僧の刃に、もはやこれまでかと蓮如上人は危機を迎えます。
しかし、どうしたことでしょう。
悪僧が右から切りつけます。
すると、石柱が右へと動いて、刃をその身で受け止めます。
これは異なことと、悪僧はさらに左から切りつけます。
すると、その刃も左へと動いた石柱が受け止めます。
右から斬れば石柱は右に、左から斬れば左に。
悪僧が苦心しているうちに援軍が到着し、蓮如上人は九死に一生を得るのです。
足に怪我を負ったものの、生き延びることができたのは石柱のおかげ。
以来、この石柱は名号を与えられ、「身代わり名号石」と呼ばれています。

現在でも、京都の安養寺には「蓮如上人御身代わり名号石」が安置されています。
本堂の中、本尊左側の厨子です。
1メートル以上の細長い石柱。
表面に刻まれているのは「無礙光如来」との御名号です。
また、寺伝に記されている言葉があります。
その意味は、真の教えを知りつつも御恩報謝に奮い立たない者について。
そういう者は木石にも劣る、との戒めです。

石柱さえその身を盾にして蓮如上人をお守りしたのです。
意思を持つ我々人間がその教えを正しく継がないでどうする。
浄土真宗の教えを学ぶには、親鸞会で法話を聞くといった方法があります。
この話は、きっとそうやって人を正しく導こうと示唆しているのでしょう。

蓮如上人と比叡山延暦寺

5月 10, 2009 - 2:21 pm コメントは受け付けていません。

蓮如上人が法主となった当時、本願寺は目も当てられないほど廃れていました。
その理由のひとつに、比叡山延暦寺の末寺を余儀なくされていたことが挙げられます。
現在とは違って、当時の本願寺は仏教界の中では微々たる存在であったのです。
独立寺院として認められてさえいませんでした。
存続のためには延暦寺の末寺としてあるしかなかったのです。

現在、浄土真宗が全国津々浦々まで浸透しているのも、ひとえに蓮如上人のおかげです。
では蓮如上人は本願寺再興のために何をしたのか。

まず最初のひとつが、延暦寺と宗旨を異にすることです。
といっても、これは容易なことではありません。
延暦寺は、なんといっても仏教界の頂点に君臨する寺院です。
そして、屈強な僧兵たちを抱え、武力もあって過激なことでも有名。
宗旨を異にしようとすれば直ちに反逆者と見なされ、本願寺など容易に弾圧されます。
門徒たちが渋る中、蓮如上人はそれでも延暦寺からの脱却を宣言しました。
本願寺内の天台風の装飾は全てとりはらう。
また、御本尊を絵像でも木像でもなく、御名号ただひとつに統一する。
そうして、蓮如上人は延暦寺に対して宣戦布告ともいえる行動をとったのです。

それを知った延暦寺の僧たちは、寛正6年1月8日、とうとう本願寺に攻め入ります。
堅田門徒の協力や佐々木如光の機転で、蓮如上人は凶刃から逃れるのですが・・・
3月21日、再度の本願寺襲撃によって、本願寺は完全に破壊されるのです。
蓮如上人51歳、法主に就任してから8年目のことです。
これが「寛正の法難」です。