Archive for the ‘蓮如上人*布教活動’ Category

北陸の秘事法門

8月 15, 2012 - 12:18 pm コメントは受け付けていません。

 先回は、蓮如上人時代、東北や、北陸にも秘事法門が
潜行伝播していたことを、浄土真宗親鸞会で聞きました。
 続けて親鸞会で、蓮如上人が北陸に滞在中のことを
聞いてきました。

「越前の国に弘まるところの秘事法門といえることは、
更に仏法にてはなし。あさましき外道の法なり。これを
信ずる者は、永く無間地獄に沈むべき業にて徒事なり」
(御文章二帖目十四通)
 
 ここで蓮如上人は、秘事法門は仏法でない、外道だと、
明らかに仰っています。そんな外道を信じていては、
長い間、地獄に沈んで苦しまねばならないと、ご教示です。

 蓮如上人は、早速、徹底法戦に立ち上がっておられます。
吉崎御坊に滞在されていたわずか四、五年の間に、北陸の
土蔵秘事の者たちがほとんど、秘事を捨て、真実を求める
ようになったのです。

『蓮如上人縁起』には、次のように記されています。

「上人、越前の国に五年の寒暑を送たまうに、かの国に
ひろまる所の秘事法門を執する族、多く改悔懺悔せり」

 土蔵秘事との戦いは、蓮如上人の時代だけではありません。
今も、信仰に悩む同朋たちの心のスキを狙っています。
 決して迷わぬよう、まず、自らが教えをよく知り、
正確に伝えていきたいと思います。

浄祐が去った直後の『御文章』

8月 8, 2012 - 12:18 pm コメントは受け付けていません。

 浄土真宗親鸞会で、蓮如上人のことを、続けて聞いて
います。今回は、前回の話の続きでした。

 浄土真宗の僧侶でありながら浄祐は、土蔵秘事に迷い、
門徒に勧めていました。その浄祐が、東北から、吉水御坊
に参詣し、蓮如上人から、仏教の真髄である親鸞聖人の
教えを厳しくお聞きしました。

 その浄祐が東北に帰っていった後、上人はすぐに、
東北の門徒衆に対して『御文章』を書かれています。
邪義に惑わされぬためです。

 二帖目二通に、このように教えられています。
「この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、
無間地獄に堕在すべきものなり」
「親鸞聖人が教えられた正しい信心を獲得しなければ、
極楽に往生するどころか、苦しみの世界に堕ちて
いかなければならないぞ」

 また、次のようにも戒められています。
「弥陀を一心一向に信楽して二心のなき人を、弥陀は
必ず遍照の光明をもって、その人を摂取して捨てたまわざる
ものなり。(中略)この外に、なお信心ということの、
ありという人これあらば、大なるあやまりなり。すべて
承引すべからざるものなり」
 阿弥陀仏に、一心一向に向かう以外に助かる道はない、
「一向専念無量寿仏」以外を言う者があっても、
一切聞いてはならない、と、断言しておられます。

 土蔵秘事は、決して東北だけではありません。
越前(福井県)を中心に、北陸一帯に蔓延していたと
いわれます。今なお、浄土真宗が盛んな地域には、
土蔵秘事が潜行伝播しているから、気をつけねばならないと
聞いてきました。

切り刻みても飽くかよ(後半)

5月 2, 2012 - 12:03 pm コメントは受け付けていません。

(前号の粗筋)

 蓮如上人が吉崎に入り、弥陀の本願を説かれるや、大勢の
参詣者であふれ、中には、遠路、東北から足を運ぶ門徒も
あった。
 ところが、浄土真宗の僧侶でありながら土蔵秘事で大勢を
迷わせていた浄祐という男も参詣、それを見られた蓮如上人
は、どうされたか。

 浄祐を見られた蓮如上人は、激しい怒りをあらわに
されます。
「親鸞聖人のみ教えをネジ曲げるとは、何と憎たらしい奴だ」
 これだけではありません。歯をくい締められて、
「切り刻んでも飽くかよ、飽くかよ」
と、繰り返し叫ばれたともいいます。
 八つ裂きにしてもすまない気概に、そばにいたお弟子は、
皆、戦慄したでしょう。その緊迫した様子を、
『御一代記聞書』に次のように著されています。
「蓮如上人、奥州の浄祐を御覧候て、以ての外御腹立候て、
『さてさて親鸞聖人の御流を申しみだすことの浅ましさよ、
憎さよ』と仰せられ候て、御歯をくい締められて、
さて『切り刻みても飽くかよ、飽くかよ』と仰せられ候」
(二四三)

 84歳の聖人が長男・善鸞を勘当され、ご臨終にお詫びに
きた善鸞に、面会さえ許されていないことからも、
善知識の、邪を憎まれる鬼気迫る激しさが、知らされます。

切り刻んでも飽き足りぬ

4月 2, 2012 - 1:57 pm コメントは受け付けていません。

「切り刻んでも飽き足らない奴」――。過激で辛辣なこの言葉は、
ほかならぬ蓮如上人の仰せです。
 温厚な上人を知る人には、信じられないでしょう。しかし、
そばに居合わせたお弟子の記録を読めば、蓮如上人の、さらなる
真実に対する厳しさ、潔癖さが知らされます。
 文明五年の冬、吉崎御坊(福井県)で、何が起きたのか。
 親鸞会で、話を聞くことができました。

■浄祐(奥州)の異安心

 蓮如上人が、吉崎御坊(福井県)へ入られて2年後の文明五年、
早くも御坊内は参詣者であふれ、活況を呈していました。
「加賀・越中・能登・越後・信濃・出羽・奥州七箇国より、
彼の門下中、この当山へ、道俗・男女参詣をいたし、群集せしむる」
(1帖目7通)と、『御文章』にあるように、東北からも、
多くの参詣者があったと分かります。

 その中に、浄祐という男がいました。浄土真宗の僧侶でありながら、
土蔵秘事に陥り、大勢の門徒を迷わせていました。
 土蔵秘事とは、聖人の長子・善鸞が関東で、「オレは、父上から、
秘密の法文を伝授された。この法によれば一晩で信心獲得できる」と
言い出した邪説です。今なお、秘密主義の異安心として根強く
潜行伝播し、真宗の盛んな地では、必ずといっていいほど暗躍しています。
 後生の一大事に悩み、早く信心獲得したいとあせる門徒に近づき、
「聴聞しているだけでは救われない」
「信心獲得するには、コツがある」
などと吹き込み、犠牲者を拡大しているのです。
 しかし浄土真宗には、他人に言えない秘密など一切ありません。
信心について「これは秘密だ」などと言う者は、土蔵秘事に
間違いないといっていいでしょう。
 その土蔵秘事の異安心に染まった浄祐が、奥州から吉崎へ来た目的は
何なのか。遠路いとわず、東北から参詣する仏縁深い門徒を地獄へ
引き込む魂胆か。
 次回に、続けます。

浄土真宗の会合の目的

2月 29, 2012 - 4:36 pm コメントは受け付けていません。

(前号のあらすじ)

 超勝寺(福井県)に立ち寄られた蓮如上人は、
その日、設けられていた月一度の会合の様子を
ごらんになり、
「仏法の次第以てのほか相違せり」
と激怒なされている。
 各地の門徒が寺に集まってはいるものの、
実態は、住職を囲んだ酒宴に過ぎなかったからだ。
 浄土真宗で、会合とは、何のためにあるのか。
 蓮如上人にお聞きしてみよう。

 浄土真宗における会合の目的を、蓮如上人は
『御文章』にこう教えられる。

「当流において毎月の会合の由来は、何の用ぞ
なれば、在家無智の身をもって徒に暮し、徒に
明して、一期は空しく過ぎて、終に三塗に
沈まん身が、一月に一度なりとも、せめて
念仏修行の人数ばかり道場に集りて、
『わが信心は、ひとの信心は、如何あるらん』と
いう信心沙汰をすべき用の会合なるを……」
 在家の我々は、自分の心のままに生活して
いると、いたずらに月日を送ってしまう。
一生はあっという間に過ぎ去り、臨終を迎え、
三悪道(地獄界・餓鬼界・畜生界)へ堕ちて
ゆかねばならない。だから、せめて毎月一度でも
会合の日を決め、仏法を聴聞し、「私の信心は
こうだ、あなたはどうか」と信心の沙汰をして、
光に向かうのが会合の目的なのだ、とご教示で
ある。

 超勝寺の会合を見られた上人が、厳しく
戒められたのも、本来の目的を完全に見失い、
ただ、酒、飯、茶、世間話などに終始して
いたからだ。

「言語道断あさましき次第なり。所詮、自今
已後は、かたく会合の座中において、信心の
沙汰をすべきものなり」
と、蓮如上人は、『御文章』一帖目十二通を
結んでおられる。
 いつの時代でも、決して忘れてはならない
ご金言に違いない。
 門徒にはこのように『御文章』で戒められたが、
一方、超勝寺の住職には厳罰を与えられた。
「当住持は、この門弟あずかるべき器にあらず」
(『反故裏書』)と仰って、住職を罷免し、
追放されたという。
 ここで「門弟あずかるべき」とあるのは、
親鸞聖人から、「間違いなく、往生浄土の身に
救われるまで導きなさいよ」とお預かりして
いる大切なご門徒だからである。門徒は決して
住職の私有物ではない。住職の責務がいかに
重大か、知らされる。

■暴徒に追われ岩窟へ(福井県南越前町)

12月 5, 2011 - 4:59 pm コメントは受け付けていません。

■暴徒に追われ岩窟へ(福井県南越前町)

 福井県の地図を開くと、今庄町(現・南越前町)
の山奥に、「蓮如上人遺跡」という文字が
飛び込んできます。
 一体、どんないわれがあるのか?
 親鸞会で、詳しく話を聞くことができました。

 蓮如上人遺跡に行くには、北陸自動車道を
今庄インターで降ります。道なりに一キロほど
南へ進むと、「蓮如上人遺蹟」という大きな看板。
そこからさらに12キロほど、山あいに。眼前に
広い野原・「芋ケ平」に出ますが、到着では
ありません。
 さらに徒歩で15分、山道を登らなければ
なりません。途中、一人がやっと通れるぐらいの
橋を渡ったり、急な岩盤を斜めに登ってゆくと、
岩と岩の間にぽっかり空いた岩窟に着きます。
入り口は狭く、体をくねらせなければ、
入れませんが、中は、いくぶん広くなります。

 蓮如上人はなぜ、こんな岩窟まで、
避難されたのでしょうか。
「蓮如の由来」という道端の案内板によると、
ご布教途上で、他宗の者たちに命を狙われ、
芋ケ平まで避難されたようです。
 ちょうど畑仕事をしていた老婆が、この危難を
知り、上人をこの岩窟へご案内したといいます。
上人が、しばらく岩窟に身を隠されていた間、
その老婆は、毎日、三度のお食事を運び、心を
込めてお給仕申し上げたようです。

続きは、また今度、お伝えしましょう。

邪険な十兵衛が、一転、「どうか、中へ」。なぜ?

9月 26, 2011 - 9:08 pm コメントは受け付けていません。

 親鸞会で、蓮如上人の話を聞いてきました。
 先月の続きを、お伝えしましょう。

 蓮如上人が布教に出られた帰路、日が暮れ、途中、見えてきた
人家に寄ったものの、「坊主が大嫌いなんだ」と、戸を閉められ
てしまいました。
 やむなく上人は、作業小屋の軒下で一夜を明かされました。
 翌朝、お弟子の一人が、
「申し訳ありませんが、少しばかり食べ物を分けていただけない
でしょうか。上人さまの分だけでも……」
と頼みますが、家の主人は、
「しつこい坊主だ。まだいたのか」
といい、荒々しく物を投げつける始末。こともあろうに、
蓮如上人の頭にまでぶつけたのでした。

「おけがはございませんか」
 駆け寄る弟子たちに、上人は、
「私にけがはないが、重兵衛のような男にこそ、弥陀の本願を
伝えたいものだ」
と悲しまれました。
 この言葉を聞いた主人・重兵衛は、雷に打たれたようにハッと
しました。己の欲深く冷酷な心が照らされ、いたたまれなく
なったからです。
「申し訳ありません。これまで見てきた坊さんとは、全く違う方
のようです。どうか、中へお入りください」
 丁重にお詫びして、上人を、お迎えしました。

 もう少し続きます。

死んだ牛へ一心に青草を与えるのは、なぜ?

4月 2, 2011 - 4:03 pm コメントは受け付けていません。

郷士・三郎右衛門の仏縁(小松市)

 親鸞会で、蓮如上人の話を聞いてきました。

 昔、西俣の里(小松市)に、代々、三郎右衛門の名を継ぐ郷士がいました。
 その家に、男の子に続き、女児が生まれ、夫婦は大喜び。娘の成長を何よりの楽しみにしていました。
 ところが、愛娘16歳の春、風邪がもとで病の床に臥し、「医者よ、薬よ」と手を尽くす両親の介抱も空しく、あわれ世を去ってしまったのです。
 天を仰いで茫然自失、地に伏して号泣しながら遺体にとりすがってみても、どうしようもありません。涙を抑え、粛々と野辺送りを済ませたあとは、一つまみの白骨だけが残りました。
 生前の娘の面影をしのび、二人は、あらゆる珍味をその白骨の前に供えることを、絶やしませんでした。
 一日中、涙に暮れる主人を目の当たりにしたこの家の使用人たちは、「何とかならぬか」と話し合いを始めます。その結果、「蓮如上人に救っていただくしかない」と、意見が一致し、主人を説得して、上人まします吉崎へ向かいました。
 事前に連絡を受けていた蓮如上人は、一計を案じられます。三郎右衛門が近くの野原を通るころを見計らい、一人の弟子に、死んだ牛の口元へ一心に青草を与えさせていました。
 ほどなく通りかかった三郎右衛門がこれを見て、大笑します。
「もう、やめたほうがよい。牛はすでに死んでいる。草を与えて何になるというのだ」
 すると、弟子は振り返って言います。
「よくぞ仰ってくださいました。この牛は頭も口もありますが、死んでいますから食べることはできません。ところがあなたは、娘さんの身体がすでに灰となり、一つまみの白骨になっても、毎日、ご馳走を供養していると聞きます。同じことではないでしょうか……。早くそれに気づき、真実の法を聞かれるように、このようにしていたのです」
 御前に参りひざまづく三郎右衛門に、蓮如上人は、静かに諭されています。
「寿命に差はあっても、生まれたからには必ず死なねばなりません。娘さんだけではない。そなたにもやがて死が訪れるのだ。明日まで生きられる保証はどこにもない。命あるうちに、阿弥陀仏の本願に救い摂られなければ、来世は一大事ですよ」
 わが身の無常と、暗い後生に驚いた三郎右衛門は、家督を息子に譲り、以来、聞法一筋の生活に生きたといいます。

白山の修行僧も、弟子に

2月 1, 2011 - 12:05 pm コメントは受け付けていません。

 親鸞会で、蓮如上人のエピソードについて聞いてきました。

 蓮如上人が、加賀(石川県)の山中温泉で湯治中にも、たくさんの
人が仏縁を結んだと伝えられています。
 その一人に、白山の修行僧・密啓がいます。元は天台宗の僧侶ですが、
上人のご説法に参詣するや、教えにひかれ、続けて吉崎御坊に足を運ぶ
ようになりました。
 聞かせていただくほどに、自力難行の聖道門仏教では救われぬ、と
知らされ、意を決して天台宗を捨てます。
 蓮如上人のお弟子になり、「願勝房」との名を賜って、以後、上人の
おそばで聞法に励んだといわれます。
 真宗への奔流はいよいよその勢いを増し、ほかにも仏教諸宗派から
真宗へ改宗の動きが続きました。
 ついには、蓮如上人の名声が、権力者の心をも動かします。ある日、
加賀の御幸塚城(小松市)の城主・富樫泰高が、蓮如上人をご招待して
ご法筵を開きました。
 感激した泰高は、「お弟子の一人なりと、城下にとどめてください。
続けて教えを聞かせていただきたいのです」と上人に嘆願しました。
 蓮如上人は、随行していた願勝房に、その役を任じられています。
 願勝房が今江(小松市)に滞在して建てた聞法道場が、今の願勝寺で
あると伝えられています。

蓮如上人の御文章

5月 18, 2009 - 3:05 pm コメントは受け付けていません。

蓮如上人といえば御文章、御文章といえば蓮如上人です。
御文章は蓮如上人が考えられた、布教方法のひとつです。
これによって、親鸞聖人の教えは爆発的に広まりました。

では、御文章とはいったい何なのか。
それは現代で例えると「手紙」が最も近いでしょう。
単純に手紙を布教の手段に使う方法はそれまでにもありました。
御文章がそれらと違うのは、差出人を特定していない点にあります。
不特定多数の人に向けて発信することで、あらゆる地域に広まります。
同時に幾通にも書き写され、それがまた各地に広がるのです。
もとは蓮如上人自身の言葉なので、読み上げた言葉は蓮如上人の言葉といえます。
また、そこに書かれた文字が平仮名交じり。
学の乏しい者にも読めることが功を奏したのでしょう。
蓮如上人の御文章は瞬く間に広まり、浄土真宗はめざましい発展を遂げます。
一人の足で歩いて布教するのでは限界があります。
しかし、御文章は幾人もの蓮如上人が日本中を歩くのと同じ効果をもたらしたのです。

御文章は蓮如上人が教行信証を元に書きあげられたものです。
そこには親鸞聖人の教えを正しく説いた言葉が記されています。
蓮如上人が生涯のうちに書かれた御文章は、じつに260通を超えます。
現在、御文章といわれているものは、その中から選ばれた80通。
私たちが知る御文章は、多く書かれたお手紙の一部であることがわかります。

さて、蓮如上人を語るにあたって重要な御文章。
その第一号にはどんなエピソードがあるのでしょう。

蓮如上人の高説に心を打たれた者に、道西という人がいます。
蓮如上人が47歳のとき、親鸞聖人の教えを記した文を道西に渡しました。
感嘆した道西。
蓮如上人からいただいたそれを、親鸞聖人、ひいては阿弥陀仏からの御文と受け止めます。
ただの手紙ではないとして、それを「御文章」と呼ぶようになったのです。