死んだ牛へ一心に青草を与えるのは、なぜ?

4月 2, 2011 - 4:03 pm コメントは受け付けていません。

郷士・三郎右衛門の仏縁(小松市)

 親鸞会で、蓮如上人の話を聞いてきました。

 昔、西俣の里(小松市)に、代々、三郎右衛門の名を継ぐ郷士がいました。
 その家に、男の子に続き、女児が生まれ、夫婦は大喜び。娘の成長を何よりの楽しみにしていました。
 ところが、愛娘16歳の春、風邪がもとで病の床に臥し、「医者よ、薬よ」と手を尽くす両親の介抱も空しく、あわれ世を去ってしまったのです。
 天を仰いで茫然自失、地に伏して号泣しながら遺体にとりすがってみても、どうしようもありません。涙を抑え、粛々と野辺送りを済ませたあとは、一つまみの白骨だけが残りました。
 生前の娘の面影をしのび、二人は、あらゆる珍味をその白骨の前に供えることを、絶やしませんでした。
 一日中、涙に暮れる主人を目の当たりにしたこの家の使用人たちは、「何とかならぬか」と話し合いを始めます。その結果、「蓮如上人に救っていただくしかない」と、意見が一致し、主人を説得して、上人まします吉崎へ向かいました。
 事前に連絡を受けていた蓮如上人は、一計を案じられます。三郎右衛門が近くの野原を通るころを見計らい、一人の弟子に、死んだ牛の口元へ一心に青草を与えさせていました。
 ほどなく通りかかった三郎右衛門がこれを見て、大笑します。
「もう、やめたほうがよい。牛はすでに死んでいる。草を与えて何になるというのだ」
 すると、弟子は振り返って言います。
「よくぞ仰ってくださいました。この牛は頭も口もありますが、死んでいますから食べることはできません。ところがあなたは、娘さんの身体がすでに灰となり、一つまみの白骨になっても、毎日、ご馳走を供養していると聞きます。同じことではないでしょうか……。早くそれに気づき、真実の法を聞かれるように、このようにしていたのです」
 御前に参りひざまづく三郎右衛門に、蓮如上人は、静かに諭されています。
「寿命に差はあっても、生まれたからには必ず死なねばなりません。娘さんだけではない。そなたにもやがて死が訪れるのだ。明日まで生きられる保証はどこにもない。命あるうちに、阿弥陀仏の本願に救い摂られなければ、来世は一大事ですよ」
 わが身の無常と、暗い後生に驚いた三郎右衛門は、家督を息子に譲り、以来、聞法一筋の生活に生きたといいます。

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