今回は、蓮如上人のお側に仕えたお弟子の道西について、お話しましょう。
『御一代記聞書』(蓮如上人の言行録)に残されているエピソードです。
ある時、蓮如上人が、法語を書いて道西に与えられました。道西の喜びは大変なもので、
早速、表具をし、箱の中に入れて、大切に保管します。
ところが、しばらくして蓮如上人が、そのことを知られるや、
「そんなことをしたのでは意味がないではないか。常に、見えるところに掛け、心を正して、
聞法の指針にしなければ」
と戒められています。(『御一代記聞書』二八七)
蓮如上人から、直筆の法語を頂いたならば、家宝として大切にしたい気持ちが出てくるのは
当然といえましょう。
しかし、蓮如上人は、
「一日も片時も急いで、信心決定してくれよ」
の御心であられたことが知らされます。
また、このようなエピソードも伝えられています。
ある人が、道西の家を訪ねた時のことです。
まだ玄関先で、履物さえ脱いでいない先に、道西はその客に、仏法の話を始めたと
いわれます。
そばにいた人が驚いて、
「なぜ、そんなに急がれるのか」
と尋ねると、道西は、
「吐いた息が吸えなかった時が、後生。しかも、それは明日かも知れない無常の世の中だ。
もし履物を脱がないうちに最期を迎えたらどうするか。仏法のことは、急がねばならない」
と答えています。(御一代記聞書一九八)
蓮如上人は常に、
「後生の一大事の解決を、急げ、急げ」
と教えられます。
道西は、蓮如上人の仰せの通り、実践し、人にも呼びかけていたことが分かります。
悲しいことですが、朝には紅顔あって、夕には白骨となれる身が私たちです。
だからこそ、誰の人も早く、後生の一大事を心にかけ、聞法精進せよと教えられるのでしょう。
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先回、比叡山の僧兵と真宗門徒が衝突した史上初の一向一揆について、お話しました。
今回は、その関連で、法住のエピソードを紹介しましょう。
一向一揆後、まもなく、その余波が、今度は堅田を襲います。というのも、金森で奮闘した堅田門徒を
攻撃しようと、比叡山が動き出したからです。
門徒側も法住の住む本福寺に立てこもって武装し、一触即発の事態となりました。
しかし、蓮如上人からは、「武力に訴えてはならない」の厳命があります。何としても衝突は
避けなければなりません。
そこで、法住は、80貫文(約500万円)を山門に積み上げ、和平への意思を表明しました。
さらに、和平交渉のため法住は、単身、比叡山へ乗り込みます。全山の僧が詰め掛ける
根本中堂で、法論が始まりました。
「本願寺は邪法だ。なぜ、新たに名号を本尊とするのか」
早速、怒声が飛びます。
そこへ法住、サッと立ち上がり、柱に御名号をお掛けし、
「我ら在家の者は、罪深く、学もない凡夫。出家して修行に身を投じることなどとうてい及ばぬ。
しかし、阿弥陀仏は、このような罪悪深重の凡夫を目当てに本願を建てておられるのだ。
だから、阿弥陀仏一仏を尊崇し、御名号本尊なのである。どうして、邪法呼ばわりするのか」
根拠を提示してよどみない法住の熱弁に、堂内は、水を打ったように静まり返ります。
ついに、「今かけられるところの本尊、免し申す」の声が上がりました。
多数の僧相手にひるむことなく、完膚なきまでに論破した法住は、この時、70歳。
蓮如上人は高く評価され、この時の御名号をご下附されました。
法住はかしこまって拝受し、以来、堅田・本福寺の御本尊にお迎えしたのです。
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琵琶湖岸・赤野井の浜に立てば、対岸には比叡山が間近に迫ります。
蓮如上人が活躍した当時、熱心な門徒が集まった堅田や金森も近くで、比叡山から見下ろせる
位置にありました。延暦寺からすれば、自分たちの膝元で本願寺が急速に発展するのは、当然、
おもしろくありません。攻撃は、蓮如上人のみならず、本願寺の門徒にも及んでいました。
門徒の家に押し入って御本尊を奪い、金銭をゆすり、家屋を壊します。幕府も、再三、制止命令を
出しますが、一向におさまりません。そこで門徒は、比叡山の横暴を避けて、
蓮如上人まします金森道場へ集まるように。町の周囲は水濠や土塁で囲まれ外敵の侵入を防ぎ、
中は、道場(寺院)を中心に二百戸近い民家が建ち並び、道路も碁盤の目状に整備されていました。
安心して、仏法を聴聞できる町造りだったようです。
ところが、文正元年(一四六六)八月、比叡山が金森を襲うというウワサが流れ、
まもなく、三百人余の暴徒が金森を包囲します。しかし、堅田からの援軍や門徒決死の防戦で、
蓮如上人は、かろうじて敵中を突破され、難を逃れます。
上人の無事を見届けた門徒衆は、敵の主将の首級をあげ、13人討ち取る勝利でした。
意気盛んに、蓮如上人へ報告に伺うと、上人は大変ご立腹になります。
「人を殺すとは、言語道断。正法か邪法かは、法論で決着をつけるべきだ。すぐに、軍を解散せよ」
厳命がくだされます。
これが、史上初の一向一揆といわれています。
Posted in 蓮如上人*延暦寺との攻防
比叡山延暦寺は蓮如上人の首を捕った者には褒美を払うとのおふれを出しました。
それによって欲に目が眩んだ者が現れたのは必須。
同時に起こった悲しい話を親鸞会で聞くことができました。
蓮如上人は近江で布教している途中、中井長右衛門の家に泊まります。
この事実に喜んだ長右衛門夫婦。
褒美を娘のためにと、蓮如上人の暗殺を画策します。
一方、娘のお初は、これを機と蓮如上人の法話を熱心に聞き入る様子。
感激を胸に、蓮如上人の身の回りのお世話をします。
そうしているうちに、お初の耳に恐ろしい両親の謀ごとが聞こえてきました。
蓮如上人の身に危険が迫っている。
そのことを知らせようと、お初は歌に代えて事を伝えます。
それに気づいた蓮如上人。
お初の案内に導かれて家から逃げ出します。
家に残ったお初はというと、なんと蓮如上人の身代わりとなって布団に潜ります。
そうと知らずにやってきた長右衛門夫婦。
布団を斬りつけると、そこにいたのは娘のお初です。
思いもしない因果応報に、夫婦は悲しみにくれるしかありません。
お初は、どうか蓮如上人の教えを受けるようにと懇願して息絶えるのです。
お初の頼みを遺言として、蓮如上人に許しを乞う長右衛門夫婦。
命を狙っていたため、会わせる顔がないと思っていました。
しかし、夫婦の後悔を受けて、蓮如上人は二人を諭します。
我が子を手にかけることはこの世のものとも思えない恐ろしい所業。
しかし、阿弥陀仏の本願を聞信するならば必ず救い摂られるだろう、と。
こうして、長右衛門は空善房として蓮如上人の弟子となります。
空善房は「蓮如上人御一代記聞書」の著者。
精進に精進を重ねて、蓮如上人のご臨終にまで看病した信任厚い弟子です。
Posted in 蓮如上人*こぼれ話, 蓮如上人*弟子の話
本願寺が延暦寺の悪僧に襲撃されて以来、蓮如上人は命を狙われることになります。
蓮如上人は布教を進めるべく、各地で法話を説き続けます。
法話を説けば、必ず多くの人々がそこに集う。
人の集まるところに蓮如上人ありと、噂を聞きつけた悪僧がやってくるのです。
ある日、命を狙う悪僧から逃げて、蓮如上人は安養寺へとやってきます。
しかし、門前まで来たはいいものの、もう逃げる場所はありません。
石柱の陰に身を隠すものの、細い柱。
切りつける悪僧の刃に、もはやこれまでかと蓮如上人は危機を迎えます。
しかし、どうしたことでしょう。
悪僧が右から切りつけます。
すると、石柱が右へと動いて、刃をその身で受け止めます。
これは異なことと、悪僧はさらに左から切りつけます。
すると、その刃も左へと動いた石柱が受け止めます。
右から斬れば石柱は右に、左から斬れば左に。
悪僧が苦心しているうちに援軍が到着し、蓮如上人は九死に一生を得るのです。
足に怪我を負ったものの、生き延びることができたのは石柱のおかげ。
以来、この石柱は名号を与えられ、「身代わり名号石」と呼ばれています。
現在でも、京都の安養寺には「蓮如上人御身代わり名号石」が安置されています。
本堂の中、本尊左側の厨子です。
1メートル以上の細長い石柱。
表面に刻まれているのは「無礙光如来」との御名号です。
また、寺伝に記されている言葉があります。
その意味は、真の教えを知りつつも御恩報謝に奮い立たない者について。
そういう者は木石にも劣る、との戒めです。
石柱さえその身を盾にして蓮如上人をお守りしたのです。
意思を持つ我々人間がその教えを正しく継がないでどうする。
浄土真宗の教えを学ぶには、親鸞会で法話を聞くといった方法があります。
この話は、きっとそうやって人を正しく導こうと示唆しているのでしょう。
Posted in 蓮如上人*延暦寺との攻防
蓮如上人と交流を深くしていた有名人として、あの一休さんが挙げられます。
一休は蓮如上人よりも21も年上です。
加えて浄土真宗ではなく臨済宗。
にも関わらず、親鸞聖人の二百回忌法要には一休も参詣者として訪れます。
そのときに一休が歌ったという、次の和歌があります。
「襟まきの あたたかそうな黒坊主 こいつが法は 天下一なり」
親鸞聖人の御影前に対して、なんと破天荒な和歌でしょうか。
あまりに砕けたところが一休らしいですね。
また、浄土真宗の本願他力に惹かれている様子がひしひしと伝わります。
蓮如上人が布教中によく滞在されていた聞光寺があります。
また、その近くには小林寺があり、そこには一休がよく滞在していたそうです。
聞光寺は、そんな蓮如上人と一休の交流の場。
一休は幾度となく蓮如上人の法話を聞き、次のような考えを持つに至ります。
「自分が求めているのは禅の道である。
しかし、最後には南無阿弥陀仏の念仏の教えに帰さなければいけない」
・・・そんな一休が亡くなる際、弟子にある遺言を残します。
それは、念仏の中陰(四十九日の法要)を蓮如上人にしてほしい、というもの。
その遺言どおりに、一休の弟子は蓮如上人に念仏を頼みます。
しかし、その頼みを断る蓮如上人。
いわく、法は現身に説くもので死んでからでは意味がない、という。
親鸞聖人のみ教えでは「平生業成」と説かれています。
この仏教用語の意味を、親鸞会で教えていただきました。
阿弥陀仏の救いは平生に定まるもの。
死んでからでは手遅れということなのです。
Posted in 蓮如上人*こぼれ話
蓮如上人には、金森の道西のように仏法に活躍した弟子がもうひとりいます。
それが堅田の法住です。
堅田は現在の滋賀県、琵琶湖に面したところにある地です。
しかし、法住の蓮如上人に対する支援は北陸や山陰、また東北地方にまで及びます。
それほどまでに蓮如上人に尽力した法住。
ですが、蓮如上人の弟子となるまではえもいわれぬ紆余曲折があるのです。
法住の生家である本福寺は、法住の祖父・善道の代では浄土真宗。
しかし、父・覚念の代になると禅宗に改宗してしまいます。
そのまま法住に代替わりするかと思われた矢先、法住はとある夢を見ます。
なんと、法然上人と親鸞聖人が夢に現れ、嘆いているのです。
これを縁と感じ、法住は本願寺へと参詣します。
しかし、訪れた本願寺は寂れて久しく、とても見るに堪えない状態。
こうして、地獄極楽を同時に目の当たりにした法住。
結局、本願寺ではなく仏光寺の門徒となるのです。
これらは蓮如上人が生まれるよりも2年前のことです。
その後、法住が親鸞聖人の真のみ教えに出会えるのは30年以上も先のことです。
法住54歳、蓮如上人35歳のころになります。
蓮如上人が布教のため堅田に訪れたのです。
そのときに、やっと法住は真の仏教に入門できたともいえるでしょう。
蓮如上人が43歳で法主となり、自由な布教活動ができるようになると・・・
法住は堅田門徒を率いて、蓮如上人の手足となって惜しまず援助します。
数々の援助の中でも、特筆すべきは、堅田商人による布教でしょう。
堅田は元々商業が発達している土地です。
法住によって堅田の民がそろって親鸞学徒となると、商業活動に布教が加わります。
船での商いをしながらの布教は、東北、北陸、山陰らの地方にまで及びます。
行商に赴いての地で、蓮如上人からの聴聞をそのまま行う堅田商人たち。
彼らはこうして布教に励み、浄土真宗の発展に大きく貢献したのです。
Posted in 蓮如上人*弟子の話
先日、道西の話を少ししました。
なので、今回は道西についてもう少し詳しく紹介しようと思います。
金森とは、現在の滋賀県守山市金森町です。
そこには、今でも民家のただ中に金森御坊があります。
道西はこの金森の地にて生誕。
幼名は川那辺弥七。
18歳頃に仏道に帰依し、35歳頃に蓮如上人に会います。
蓮如上人は道西からみると16歳年下になります。
また、初めて会う蓮如上人はまだ法主となっていない身。
にもかかわらず、蓮如上人の法話を聞いて道西は弟子となっています。
探し求めていた真の教えがそこにあり、よほど感激したのでしょう。
道西房善従と改名するときには、すでに道西は50歳を超えていたといいます。
その後も、道西は何度も金森へ蓮如上人を招いています。
それまで、その地には親鸞聖人の教えが正しく伝わっていなかったのでしょう。
金森からその周辺へと、み教えは爆発的に広がります。
蓮如上人が訪れるたび、金森御坊は聴聞ための人でごったがえしたのです。
道西の話で面白い話があります。
当時、金森御坊は屋根が茅葺でした。
茅の葺き替えの時期に蓮如上人が金森を訪れたことがあります。
葺き替えに精を出す人々を手伝うべく、和顔愛語の心で村人の中へと入る蓮如上人。
蓮如上人は道西へ茅を渡す役目を担われます。
ですが、茅の葺き方を知らない蓮如上人は、茅の根を上にして渡します。
屋根に茅を葺くとき、根を下にしないと雨漏りしてしまうのです。
そのため、通常なら、渡すときにも根を下にして渡します。
しかし、道西は渡された茅を上下にひっくり返さず屋根を葺きます。
道西は、蓮如上人がなさることは何に対しても「畏まりたる」と従ったのです。
以来、金森御坊の屋根は一部の茅を逆に並べる習慣が生まれます。
これを「蓮如上人葺き」といい、瓦になる昭和55年まで続けられます。
Posted in 蓮如上人*弟子の話
蓮如上人といえば御文章、御文章といえば蓮如上人です。
御文章は蓮如上人が考えられた、布教方法のひとつです。
これによって、親鸞聖人の教えは爆発的に広まりました。
では、御文章とはいったい何なのか。
それは現代で例えると「手紙」が最も近いでしょう。
単純に手紙を布教の手段に使う方法はそれまでにもありました。
御文章がそれらと違うのは、差出人を特定していない点にあります。
不特定多数の人に向けて発信することで、あらゆる地域に広まります。
同時に幾通にも書き写され、それがまた各地に広がるのです。
もとは蓮如上人自身の言葉なので、読み上げた言葉は蓮如上人の言葉といえます。
また、そこに書かれた文字が平仮名交じり。
学の乏しい者にも読めることが功を奏したのでしょう。
蓮如上人の御文章は瞬く間に広まり、浄土真宗はめざましい発展を遂げます。
一人の足で歩いて布教するのでは限界があります。
しかし、御文章は幾人もの蓮如上人が日本中を歩くのと同じ効果をもたらしたのです。
御文章は蓮如上人が教行信証を元に書きあげられたものです。
そこには親鸞聖人の教えを正しく説いた言葉が記されています。
蓮如上人が生涯のうちに書かれた御文章は、じつに260通を超えます。
現在、御文章といわれているものは、その中から選ばれた80通。
私たちが知る御文章は、多く書かれたお手紙の一部であることがわかります。
さて、蓮如上人を語るにあたって重要な御文章。
その第一号にはどんなエピソードがあるのでしょう。
蓮如上人の高説に心を打たれた者に、道西という人がいます。
蓮如上人が47歳のとき、親鸞聖人の教えを記した文を道西に渡しました。
感嘆した道西。
蓮如上人からいただいたそれを、親鸞聖人、ひいては阿弥陀仏からの御文と受け止めます。
ただの手紙ではないとして、それを「御文章」と呼ぶようになったのです。
Posted in 蓮如上人*布教活動, 蓮如上人*本願寺再興
蓮如上人が法主となった当時、本願寺は目も当てられないほど廃れていました。
その理由のひとつに、比叡山延暦寺の末寺を余儀なくされていたことが挙げられます。
現在とは違って、当時の本願寺は仏教界の中では微々たる存在であったのです。
独立寺院として認められてさえいませんでした。
存続のためには延暦寺の末寺としてあるしかなかったのです。
現在、浄土真宗が全国津々浦々まで浸透しているのも、ひとえに蓮如上人のおかげです。
では蓮如上人は本願寺再興のために何をしたのか。
まず最初のひとつが、延暦寺と宗旨を異にすることです。
といっても、これは容易なことではありません。
延暦寺は、なんといっても仏教界の頂点に君臨する寺院です。
そして、屈強な僧兵たちを抱え、武力もあって過激なことでも有名。
宗旨を異にしようとすれば直ちに反逆者と見なされ、本願寺など容易に弾圧されます。
門徒たちが渋る中、蓮如上人はそれでも延暦寺からの脱却を宣言しました。
本願寺内の天台風の装飾は全てとりはらう。
また、御本尊を絵像でも木像でもなく、御名号ただひとつに統一する。
そうして、蓮如上人は延暦寺に対して宣戦布告ともいえる行動をとったのです。
それを知った延暦寺の僧たちは、寛正6年1月8日、とうとう本願寺に攻め入ります。
堅田門徒の協力や佐々木如光の機転で、蓮如上人は凶刃から逃れるのですが・・・
3月21日、再度の本願寺襲撃によって、本願寺は完全に破壊されるのです。
蓮如上人51歳、法主に就任してから8年目のことです。
これが「寛正の法難」です。
Posted in 蓮如上人*延暦寺との攻防, 蓮如上人*本願寺再興