岩屋の名号。教えの隆盛と、その後

2月 8, 2012 - 9:50 am コメントは受け付けていません。

(前号の続き)

 先月に続き、福井県南越前町(旧・今庄町)の
山奥に残る「蓮如上人遺跡」の話です。
 爆発的な浄土真宗の発展をねたんだ他宗から
命をつけ狙われた蓮如上人は、危険が及ばなく
なるまで岩窟に身を隠されました。その間、給仕を
続けたのは、地元の老婆でした。

 危険が去った後、別れを惜しむ老婆に上人は、
「南無阿弥陀仏」の御名号をお書きになり、
「恋しくば 南無阿弥陀仏と称うべし
     われも六字のなかにこそ住め」
と詠まれたといいます。
 岩窟は「蓮如窟」、中にご安置されている
ご名号は「岩屋の名号」といい、五百年もの間、
地元の人々に語り継がれてきたといいます。
案内板の最後は、
「蓮如上人の遺徳を偲び、参詣者のたえまがない」
と結ばれていました。

 では、今はどうなっているか?
「御名号」ではなく、地蔵のような石像が立ち、
周りに賽銭やお供物が散乱、仏像らしきものが、
いくつも並んでいるといいます。
『二十四輩順拝図会』(江戸時代の文献)には、
こう記されています。
「敦賀より六里に今庄の宿あり、夫より又三里
傍に芋ケ平という所あり、昔、蓮如上人、爰に
窮せられ給いし旧跡なりとぞ、岩の空虚なる中に、
六字の名号あり、則蓮師の御筆也と云伝えり」
(二十四輩巡拝図会)
 少なくとも江戸時代までは、こんな状態では
なかったのでしょう。
 しかし、いずれの地いずこの里も、親鸞聖人、
蓮如上人が、身命をなげうって明らかにして
くだされた教えが伝わっていないと知らされます。



■暴徒に追われ岩窟へ(福井県南越前町)

12月 5, 2011 - 4:59 pm コメントは受け付けていません。

■暴徒に追われ岩窟へ(福井県南越前町)

 福井県の地図を開くと、今庄町(現・南越前町)
の山奥に、「蓮如上人遺跡」という文字が
飛び込んできます。
 一体、どんないわれがあるのか?
 親鸞会で、詳しく話を聞くことができました。

 蓮如上人遺跡に行くには、北陸自動車道を
今庄インターで降ります。道なりに一キロほど
南へ進むと、「蓮如上人遺蹟」という大きな看板。
そこからさらに12キロほど、山あいに。眼前に
広い野原・「芋ケ平」に出ますが、到着では
ありません。
 さらに徒歩で15分、山道を登らなければ
なりません。途中、一人がやっと通れるぐらいの
橋を渡ったり、急な岩盤を斜めに登ってゆくと、
岩と岩の間にぽっかり空いた岩窟に着きます。
入り口は狭く、体をくねらせなければ、
入れませんが、中は、いくぶん広くなります。

 蓮如上人はなぜ、こんな岩窟まで、
避難されたのでしょうか。
「蓮如の由来」という道端の案内板によると、
ご布教途上で、他宗の者たちに命を狙われ、
芋ケ平まで避難されたようです。
 ちょうど畑仕事をしていた老婆が、この危難を
知り、上人をこの岩窟へご案内したといいます。
上人が、しばらく岩窟に身を隠されていた間、
その老婆は、毎日、三度のお食事を運び、心を
込めてお給仕申し上げたようです。

続きは、また今度、お伝えしましょう。



その後、浄円坊の開いた寺は……

11月 21, 2011 - 7:17 pm コメントは受け付けていません。

■前回の続きを、親鸞会で聞くことができました。

(前回までのあらすじ)

蓮如上人は、布教先から吉崎御坊(福井県)へ
帰路を急いでおられた。安原村(現・福井市)
まで戻った辺りで日が暮れ、付近の民家に
一晩の宿を求められる。

 仏法嫌いな家の主・重兵衛は最初、邪険に
断わり、果ては、一晩、門前で休まれた上人に
物をぶつける。

 だが、なおも「こんな男にこそ、弥陀の本願を
伝えたいものだ」と一心に念じる蓮如上人の
言葉を聞き、さしもの重兵衛も心を打たれ、
聞法に身を沈めるように。程なく、上人の
お弟子となり、やがて、自宅に御名号本尊を
お迎えして、本勝寺を開いた。

(本文)

 しかし、本勝寺三代目・浄了の時、安原村に
戦乱が起き、移転せざるをえなくなります。
 浄了は命懸けで御名号を奉持し、追っ手を
振り切って、住み慣れた村を脱出し、各地を
転々とした末に、能登半島の門前町に本勝寺を
再建、現在に至っています(石川県門前町道下)。

 今は、山のふもと、畑に囲まれるように、
ひっそりと建ち、近くまで行っても、
どこが寺か、尋ねなければ分からないほど。

 御本尊は、かつて戦乱の中、浄円坊が命懸けで
お守りした御名号ではなく、木像に。
 蓮如上人は、御本尊について、どのように
ご教示されているでしょうか。

「他流には『名号よりは絵像、絵像よりは木像』
というなり。
 当流には『木像よりは絵像、絵像よりは名号』
というなり」(『御一代記聞書』)
「他流(迷っている者たち)は、名号よりは
絵像がありがたい、絵像よりも木像の方がもっと
ありがたい、といって絵像や木像を本尊として
いる。
 しかし、浄土真宗、親鸞聖人の教えは、
木像よりは絵像、絵像よりも御名号が最もよいと
教えられたのだから、真宗の者は、みな御名号を
御本尊とせよ」

 浄土真宗の正しい御本尊は御名号なりと、
明らかに、戒めておられるのです。
 蓮如上人のご金言を、かみしめずにおれません。



邪険だった重兵衛が、お弟子になる

10月 5, 2011 - 4:29 pm コメントは受け付けていません。

 今月も、親鸞会に行って、蓮如上人の話を聞いてきました。
 皆さんにも、お伝えしましょう。

■前回までのあらすじ

蓮如上人は、布教先から吉崎御坊(福井県)へ帰路を急いで
おられた。安原村(現・福井市)まで戻った辺りで日が暮れ、
付近の民家に一晩の宿を求められる。仏法嫌いな家の主・
重兵衛は最初、邪険に断わり、果ては、一晩、門前で休まれた
上人に物をぶつける。だが、なおも「こんな男にこそ、弥陀の
本願を伝えたいものだ」と一心に念じる蓮如上人の言葉を聞き、
さしもの重兵衛も心を打たれ、聞法に身を沈めるようになった。

■本文

 蓮如上人は、重兵衛に仏法を説く機が熟したことを大変
喜ばれ、阿弥陀仏の本願を、懇ろに伝えられました。
 仏縁は、外見で推し量れるものではありません。法を謗り、
善知識に危害を加えた者でさえ、真実の教えに触れ、みるみる
変わってゆきます。

「ああ、何を求めても、安心も満足もなく、ねたみそねみで
苦しんできたのは、真実の仏法を知らなかったから……。
今、この教えに命を懸けなかったら、未来永遠、救われないぞ」

 感激にうち震える重兵衛は、すぐに、上人の弟子にさせて
いただきたいと申し出ています。文明五年(1473)7月6日
のことでした。
 かくて、浄円坊と生まれ変わった重兵衛は、蓮如上人の
おそばに仕え、聞法、布教に尽くしたといいます。
 やがて、浄円坊は、安原村の自宅に、蓮如上人御真筆の
「南無阿弥陀仏」の御名号をおかけし、本勝寺を開いています。



邪険な十兵衛が、一転、「どうか、中へ」。なぜ?

9月 26, 2011 - 9:08 pm コメントは受け付けていません。

 親鸞会で、蓮如上人の話を聞いてきました。
 先月の続きを、お伝えしましょう。

 蓮如上人が布教に出られた帰路、日が暮れ、途中、見えてきた
人家に寄ったものの、「坊主が大嫌いなんだ」と、戸を閉められ
てしまいました。
 やむなく上人は、作業小屋の軒下で一夜を明かされました。
 翌朝、お弟子の一人が、
「申し訳ありませんが、少しばかり食べ物を分けていただけない
でしょうか。上人さまの分だけでも……」
と頼みますが、家の主人は、
「しつこい坊主だ。まだいたのか」
といい、荒々しく物を投げつける始末。こともあろうに、
蓮如上人の頭にまでぶつけたのでした。

「おけがはございませんか」
 駆け寄る弟子たちに、上人は、
「私にけがはないが、重兵衛のような男にこそ、弥陀の本願を
伝えたいものだ」
と悲しまれました。
 この言葉を聞いた主人・重兵衛は、雷に打たれたようにハッと
しました。己の欲深く冷酷な心が照らされ、いたたまれなく
なったからです。
「申し訳ありません。これまで見てきた坊さんとは、全く違う方
のようです。どうか、中へお入りください」
 丁重にお詫びして、上人を、お迎えしました。

 もう少し続きます。



■宿を断った重兵衛

9月 2, 2011 - 2:20 pm コメントは受け付けていません。

 親鸞会で、蓮如上人についての詳しい話を聞くことが
できました。
 親鸞聖人は、石を枕に雪を褥に、邪険な日野左衛門の
家の門前で休まれ、阿弥陀仏の本願を伝えておられます。
 蓮如上人にもまた、同様の話が伝わっていると知らされ
ました。

■宿を断った重兵衛

 吉崎から布教に出られた帰路、蓮如上人が、越前国安原村
(現・福井市)辺りで日が暮れてしまいました。
 宿を借りようにも人家が見当たりません。
 夜が更けてから、やっと明かりのついた家が見えてきました。
「旅の者ですが、宿がなく、難儀しております。片隅にでも
泊めていただくわけにはいきませんか」
 奥から出てきた男は、邪険な目で一行を見るなり、
「なんだ、クソ坊主どもか。けがらわしい。おれは坊主が
大嫌いなんだ」
とののしり、ピシャリと戸を閉めてしまったのです。

 さて、どうなったのか。
 続きは、また、お伝えしましょう。



曹洞宗の僧が弟子に(石川県門前町)

7月 30, 2011 - 9:39 pm コメントは受け付けていません。

 親鸞会で、蓮如上人のお話を聞くことができました。

 日本海に、「く」の字型に突き出た能登半島。ここに、真宗の基盤が築かれたのは、蓮如上人の時代でありました。

 門前町(現・輪島市)の町の中心に、曹洞宗の総持寺があります。蓮如上人より百年以上前から能登に勢力を誇っていました。その周辺に多いのが、真宗寺院です。今日まで、幾多の法戦が展開されたに違いありません。蓮如上人時代は、どうだったのでしょう?

 禅宗の学者として知られる月峰は、総持寺の末寺・大覚寺の住職でした。
 浄土真宗の急速な発展を、苦々しく眺めていた月峰は、
「何が浄土仏教だ。大衆をだましおって。蓮如の誤りを正してやるわ」
と意気込み、吉崎御坊へ乗り込んできました。

 攻撃が目的の論客にも、蓮如上人は、経典の根拠を引かれ、一つ一つ丁寧に答えられたといいます。
 問答を重ねるうちに、さすがの月峰も、
「後生の一大事は、座禅を組んだくらいでは解決できない。阿弥陀仏の本願を聞信しないかぎり、救われる道はない」
と知らされ、敗北を認めざるをえませんでした。

 ところが、月峰は、敗れて腹を立てるどころか、真実知らされた喜びに包まれていました。その場で曹洞宗を捨て、上人のお弟子になったのです。
「一向専念無量寿仏」これより外に、我々の助かる道のないことを、蓮如上人は、懇ろに諭されています。

 月峰は、門前に帰るとすぐに、曹洞宗の仏像を焼却し、「南無阿弥陀仏」の御名号を本尊としています。寺の名前も「大覚寺」から「満覚寺」に改め、浄土真宗の布教に励んだといいます。

 門前から吉崎御坊へ、法論に乗り込んだ住職が、もう一人います。やはり曹洞宗総持寺の修行僧で、その名は円智。浄土仏教をあなどり、簡単に、蓮如上人を打ち破って帰るつもりでしたが、蓮如上人のお徳に引かれ、数週間滞在して、ご説法を聴聞しました。

「蓮如上人こそ、わが人生の師」
と確信した円智は、上人のお弟子となり、明敬寺を開いています。寺の縁起には、
「聞法随喜して真宗に帰す」
と記されています。

経石山の由来(石川県穴水)

 七尾湾に面した穴水で、天台、真言などの僧侶が、続々と吉崎を訪れ、蓮如上人のご教化をうけ、やがて真宗に改宗しています。
 中でも、天台宗法栄寺の比良祐教という人は、蓮如上人のお弟子になった時、これまでの経典や仏像などすべてを地中に埋め、記念の石碑を建てて、改宗のしるしとしています。
 後世に伝えようと決めた山号は、「経石山法栄寺」。
 しかし、今は、記念の石碑がどこにあったのか、分からないといいます。
 蓮如上人にめぐりあい、真実の教えに触れた祐教が、「一向専念無量寿仏」に反する一切を埋め、末代までも忘るなと遺言した精神は、悲しくも、伝えられていないようです。
「経石山」の山号に込められた心を、よく知らねばなりませんね。



上人の腕の中、泣き止んだ赤ん坊。それを見た仏法嫌いの父親は……

6月 8, 2011 - 4:29 pm コメントは受け付けていません。

 親鸞会で、蓮如上人の話を聞くことができました。

 蓮如上人が、加賀の本泉寺(現在の金沢市)に滞在しておられた時の
こと。
 聞法に訪れる人があまりにも多いため、門前の川を掘りかえ、参詣に
便利な道を、新たに造ることになりました。

 ところがただ一人、邪険で仏法嫌いな高宗兵衛という男が、屋敷の
移転を承知しません。
 そこで、上人自ら頼みに行かれることに。

 それでも宗兵衛は、意地悪く、奥の部屋に隠れて会おうとしません。
 客間で蓮如上人が待たされていると、隣の部屋で寝ていた赤ん坊が
泣き出します。

 上人は、赤ん坊をあやされながら、
「大きくなったら仏法を喜んでおくれ。お前の両親は仏法が大嫌い
でなぁ。死んだ後のことも心配しないで日暮しをしている」
と話しかけられると、赤ん坊は急に泣き止んで話を聞くようなそぶりを
したといいます。上人は、阿弥陀仏の本願を独り言のように、懇ろに
話しかけられました。

 奥の部屋で聞いていた宗兵衛は心打たれ、走り出て、蓮如上人に詫び、
わが身の浅ましさを懺悔して、熱心に仏法を聞き求めるようになったと
いいます。



天台宗の僧二人、そろって改宗。蓮如上人のご教化で

5月 7, 2011 - 11:13 am コメントは受け付けていません。

 親鸞会で、蓮如上人の布教について、詳しく聞くことができました。

 蓮如上人のご布教により、そのころ、越前(福井県)、加賀(石川県)
一帯の、天台宗の道場が、次々に浄土真宗へ改宗していました。
 寺井(石川県)の天台宗寺院の住職・覚心房覚阿は、苦々しくて
なりません。
「おのれ仏敵、蓮如め。わしが法論で打ち負かしてやる」
 こう豪語して、吉崎御坊へ乗り込みました。

 一方、蓮如上人は、喜んで覚阿を迎えられ、いかなる問いにも明快に
答えられています。
 末法の今、聖道門自力の仏教では一人も助からないと、懇ろに諭された
覚阿は、とても自分のかなう相手ではないと分かります。ただちに、
上人の説かれる教えこそ、釈迦の真意であると確信したのです。
 もはや、天台宗に戻る気はありません。その場で、蓮如上人のお弟子に
なり、名を唯信と改めています。

 その唯信には、隣村に、同じく天台宗の道場を開く山上清左衛門という
親友がいました。これまで同じ志で修行してきた仲です。
 吉崎から帰った唯信は、すぐに清左衛門の道場へ向かい、天台宗を
捨てて浄土真宗に入れと勧めています。

 ところが、入門したての唯信では、清左衛門が納得するまでの話に
及びません。夜を徹して、燃える信念を互いにぶつけた議論に及び
ましたが、並行線。とうとう一緒に吉崎へ参詣し、蓮如上人のご教化を
仰ぐことに。

 上人はまたも喜んで迎えられ、清左衛門に、諄々と、弥陀の本願を
説かれたといいます。すべての疑問が晴れた清左衛門は、上人のお弟子と
なり、名を行勧と改めました。
 唯信房と行勧房は、ともに称仏寺を拠点に、「一向専念無量寿仏」の
徹底に尽くしたのでした。



リアルな地獄の夢に、まどろみ破れた無類の悪党

4月 11, 2011 - 4:05 pm コメントは受け付けていません。

 親鸞会で、蓮如上人のお弟子になった武士の話を聞いてきました。

 蓮如上人が吉崎御坊(福井県)を拠点に、北陸各地の布教へと精力的に
歩いておられた時のこと。

 隣の加賀国能美郡(石川県小松市)に、多田孫左衛門という武士が
いました。常に野山を駆け回り、狩猟に明け暮れ、少しも仏法を尊ぶ心が
ありません。

「死んだ後なんてあるか。この世さえ楽しければいいだろう。
 坊主たちは、死後の極楽を売り物にして金もうけしてやがる。許せん」
 好き放題、暴言を吐き、心中深く、吉崎御坊の繁盛をねたんで、
上人に危害を加えようとさえ企てていた始末。

 そんなある日、溺愛していた一人娘が、病に倒れてしまいます。
次第に重症となり、高熱にうなされて最後、「お父さん、お母さん、
私をいとおしんでくださるなら、冥土へ一緒に来てぇ。ああ、火の車が
来る!怖い、怖い」と悶え苦しむうちに、息を引き取ったのです。

 享年16歳。涙乾かぬその日、床についた孫左衛門は、夢を見ました。
 庭の木陰にたちまち黒雲わき上がり、紅蓮の炎に包まれた火車が
現れたではありませんか。
 牛頭馬頭の怪物たちが、金棒や刀を振りかざし、孫左衛門を
責め立てます。

「耳を澄まして、よーく聞くがよい。お前は、仏法をそしり、鳥獣の命を
奪って、他人をののしる無類の悪党だ。地獄から連れにきたぞ」
 恐れわななく孫左衛門は、詫びようとしても声が出ません。
 逃げようにも道がなく、全身がみるみる炎に焦がされ、苦しみあえぐ
最中に、目が覚めました。

 たとえようのない恐ろしさに、とても夢とは思えません。
「娘が言い残した火車とは、このことか。死んだ後は無になるどころでは
ない、臨終には、必ず火車が現れる。地獄なんてまっぴらだ」

 早速、真剣に救いの道を求めます。
 しかし、真っ暗な魂を解決してくださる教えを説かれるのは、これまで
非難してきた蓮如上人しかおられません。

 恐る恐る吉崎へ向かうと、上人は、温かく迎えてくださいました。
「多くの生き物の命を奪い、罪悪を犯し続ける我々は、一息切れたら、
必ず、地獄に堕ちて苦しまなければならないと教えられます。火車は、
自分で生み出したもの、避けることはできぬ。しかし、阿弥陀仏は、
どんな人をも、必ず救うと誓っておられる。この世は絶対の幸福に
生かされ、死後は弥陀の浄土に往生させていただけるのだ。今より後は、
一心一向に阿弥陀仏を信じなさい」

 法の尊さに打たれた孫左衛門は、歓喜の涙を流し、すぐにもとどり
切って、上人のお弟子となり、名を兼秀と改めています。